模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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空気が変わっていた。
脇を見れば焼きソバ、たこ焼き、かき氷と屋台が並ぶ。暗くなりゆく空と対照的に、屋台は明かりを道行く人々に提供している。この時間の明かりを支配しているのは屋台であった。食べ物の匂い。普段より食欲をそそる。浴衣姿の人。どこかで見知った顔もいたかもしれない。 荘厳な神輿。それを担ぐ男たちの勇壮な姿。和太鼓と笛の音。祭囃子が聞こえてくる。私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。
ただ、気が付いたことがある。ここは昨日鬱々とした気分で歩いたあの町であったのだ。
祭りと聞くと、近所の夏祭りが思い出される。祭りがあると聞くとうきうきとした気分になったものであった。お小遣いを握りしめ、かき氷にしようかたこ焼きにしようかと随分悩んだものであった。
冷静になって考えると、屋台で買う食べ物は、普段その辺のスーパーマーケットでもっと安く買える。味だって屋台のがスーパーのより美味しいということはあまりないだろう。それでも人は屋台に並ぶ。およそ経済的に見て合理性がないだろうことに魅力を感じるのは、「祭り」という「場」の持つ力だろう。
祭りとは一般的に、神事など、宗教的な意味合いを持った行事である。現代では世俗的な部分も増えてはいるものの、「宗教的」な部分は必ず存在する。また、地域共同体を結びつける行事でもある。
精神的な側面としては、祭りは非日常を演出する。「普段」とは違った雰囲気・空気が生まれるのである。ひとたび祭りの場に入ると人々の心は高揚する。そして、「日常」からの解放感を覚えるのである。
自分は「祭り」を持っているだろうか。自分の生活の中にいかばかりの「非日常」があるのだろうか。
日々の生活を見直してみると、細部では多少の差異が認められるもののどれも同じようなパターンを繰り返しているように思えてならない。朝起き、大学に行き、勉強し、帰る。そして、これらの中身をそれぞれ検討してみてもやはり似ている。違いなんて、勉強するのが民法か刑法かぐらいだろう。本質的差異はない。「日常」しか存在しない毎日なのである。
すると自分の大学生活は「日常」を繰り返して終わるのではないかと考える。この鬱々とした日々があと2年半も続くのかと思ってしまう。また、去年の4月から振り返ってみても、1日1日は同質な無機質な繰り返し。
僕は嘗て、大学生活を刺激的だと思ったことが会った。しかし、やがて飽きが生じる。転がりを止めた岩には苔が生える。大学生活という岩にも苔が生えた。
「日常」からの解放はあるのだろうか。「日常」が永続する鬱屈間からの「癒し」、「救い」は存在するのだろうか。
それはない。
ただ何もせず、「日常」から解放されることを待っているだけでは何もない。
「日常」からエスケープせよ。「日常」を転覆せよ、革命を起こせ。そして「非日常」を演出しよう。能動的な行為なくして現状を変えることは出来ない。自分に「祭り」を起こさねばならない。まだ何をすれば「祭り」が生まれるのかは分からない。それは難しいことかもしれない。意外に簡単なことかもしれない。ただ「○○すればいいのでは?」的な安易な答えの中にはないだろう。なぜなら「何をする」ということだけが問題なわけではなく「いかに非日常を追求するか」のプロセスを追求するという行為が結果と結合しなければいけないのだ。
あの高揚感、解放感が必要だ。精神世界が浄化されるような「祭り」が必要だ。
僕の夏休みの主題はこれだ。「祭り」という名の「非日常」を求める夏休みにしたい。
脇を見れば焼きソバ、たこ焼き、かき氷と屋台が並ぶ。暗くなりゆく空と対照的に、屋台は明かりを道行く人々に提供している。この時間の明かりを支配しているのは屋台であった。食べ物の匂い。普段より食欲をそそる。浴衣姿の人。どこかで見知った顔もいたかもしれない。 荘厳な神輿。それを担ぐ男たちの勇壮な姿。和太鼓と笛の音。祭囃子が聞こえてくる。私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。
ただ、気が付いたことがある。ここは昨日鬱々とした気分で歩いたあの町であったのだ。
祭りと聞くと、近所の夏祭りが思い出される。祭りがあると聞くとうきうきとした気分になったものであった。お小遣いを握りしめ、かき氷にしようかたこ焼きにしようかと随分悩んだものであった。
冷静になって考えると、屋台で買う食べ物は、普段その辺のスーパーマーケットでもっと安く買える。味だって屋台のがスーパーのより美味しいということはあまりないだろう。それでも人は屋台に並ぶ。およそ経済的に見て合理性がないだろうことに魅力を感じるのは、「祭り」という「場」の持つ力だろう。
祭りとは一般的に、神事など、宗教的な意味合いを持った行事である。現代では世俗的な部分も増えてはいるものの、「宗教的」な部分は必ず存在する。また、地域共同体を結びつける行事でもある。
精神的な側面としては、祭りは非日常を演出する。「普段」とは違った雰囲気・空気が生まれるのである。ひとたび祭りの場に入ると人々の心は高揚する。そして、「日常」からの解放感を覚えるのである。
自分は「祭り」を持っているだろうか。自分の生活の中にいかばかりの「非日常」があるのだろうか。
日々の生活を見直してみると、細部では多少の差異が認められるもののどれも同じようなパターンを繰り返しているように思えてならない。朝起き、大学に行き、勉強し、帰る。そして、これらの中身をそれぞれ検討してみてもやはり似ている。違いなんて、勉強するのが民法か刑法かぐらいだろう。本質的差異はない。「日常」しか存在しない毎日なのである。
すると自分の大学生活は「日常」を繰り返して終わるのではないかと考える。この鬱々とした日々があと2年半も続くのかと思ってしまう。また、去年の4月から振り返ってみても、1日1日は同質な無機質な繰り返し。
僕は嘗て、大学生活を刺激的だと思ったことが会った。しかし、やがて飽きが生じる。転がりを止めた岩には苔が生える。大学生活という岩にも苔が生えた。
「日常」からの解放はあるのだろうか。「日常」が永続する鬱屈間からの「癒し」、「救い」は存在するのだろうか。
それはない。
ただ何もせず、「日常」から解放されることを待っているだけでは何もない。
「日常」からエスケープせよ。「日常」を転覆せよ、革命を起こせ。そして「非日常」を演出しよう。能動的な行為なくして現状を変えることは出来ない。自分に「祭り」を起こさねばならない。まだ何をすれば「祭り」が生まれるのかは分からない。それは難しいことかもしれない。意外に簡単なことかもしれない。ただ「○○すればいいのでは?」的な安易な答えの中にはないだろう。なぜなら「何をする」ということだけが問題なわけではなく「いかに非日常を追求するか」のプロセスを追求するという行為が結果と結合しなければいけないのだ。
あの高揚感、解放感が必要だ。精神世界が浄化されるような「祭り」が必要だ。
僕の夏休みの主題はこれだ。「祭り」という名の「非日常」を求める夏休みにしたい。
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