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模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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 ヒトカラ、つまり1人カラオケのこと。今日の昼間に1人でカラオケに行ってきました。

 夏の日差しを受けながら自転車で15分ほど。汗がだらだらと出る。最近引きこもりぎ気味になっていたから日差しがまぶしい。

 受付は若干恥ずかしかったが難なくクリア。部屋に入る。

 1人なら一時間でもかなりの曲数を歌えるものだ。他人とカラオケに行くときはいちいち「空気」を読まなければならず、「遊び」にいったつもりがかえってストレスがたまることも少なくなかったが(特にあまり親しくない人と行く場合)1人ならば全く遠慮はいらない。およそ他人と行くときに歌ったら嫌われるような曲ばかり歌い、自分はそれなりに満足できた。
 
 一時間だけで、ドリンクバーなどのオプションをつけなかったため、250円だけで済んだ。もっと安い店は探せばいくらでもでてきそうだから、あまりお金をかけずに休日を過ごすにはいいかもしれない。

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 大学2年生になって自分はやっと「法」学部生になったのではないかという気がしてきた。

 入学当初の自分は「法」を学ぶ学生ではなかった。「法律」や「法学」に触れるのは大学の講義の週3~4コマ中だけであり、日常生活において自分の頭の中を支配していたのは「教養」への憧れだった。そして、「法」は極めて低い位置づけだった。

 かつて、浪人生活が終了し大学受験から離れた時、ある一つの目標を立てた。それは大学入試終了時から大学卒業までに1000冊の本を読むことであった。大学に行ったらとにかく読書をしようと考えていたのだ。

 そのときの自分は単に「知的」なものへ憧憬を持っていただけに過ぎないかもしれない。だが、読書を通じて知ることのできる世界は魅力的だった。思想書を読めば過去の賢人の考えの一端に触れることができ、歴史書を読めば時空の流れというダイナミズムを味わうことができ、小説を読めば自分では到底経験できないような体験をすることができる。やがて社会人になり読書ができなくなることを思うと、消えゆくものを必死に追い求めるかのように本にむさぼりついた。

 もちろん、自分は読んだ本の内容を全て理解していたわけではなく単なる乱読と思われるところもあった。青臭いアマチュアな教養だった。

 このような「教養志向」のときの自分にとって、「法」を学ぶ(勉強する)ということは、読書の一環のようなものであった。大学の講義は法律書を(趣味として)読む手ほどきをするくらいのものと考えていた。

 しかし、入学後に色々と事情が変わり、このようなノンビリとした「教養志向」の生活を維持しがたくなってきた。そして、大学生活を何かを為す(得るではなく)ことなしに終えることに恐怖に似た感情を持つようになった。僕は「専門性」を求めるようになった。「専門」の「学問」としての「法学」をぜひとも身に着けねばと思った。

 そして、日常の関心ごとのナンバーワンが「法」に変わった。自分の中で「教養」が軽視された。そして、「法」が最大の関心ごとであるところの大学生、つまり「法」学部生になったのだ。

 話は変わる。

 昨日司法試験受験組の友人と会話をしていたときに夏休みの過ごし方の話になった。そのとき、その友人からは「勉強」という言葉が何度も出てきた。しかし、僕はその「勉強」の大切さを分かっていながらも、どこか空虚な響きを感じてしまった。

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 7月が終わりました。昨日は日雇いバイトがあって疲れていたのでブログが書けなかったから、今日書こうと思う。

 7月の前半部分はサークル活動があったものの、試験期間ということで少しばかりのお休み。「公式のサークル活動」がなかったとしても大抵のメンバーは昼休みや空きコマに部室に行って時間を潰しているけれど、僕はそこにいってもつまらないから行かない。

 そして中心は期末試験の勉強。

 期末試験の勉強はとにかくきつかったし、自分の勉強の「甘さ」を自覚させられた。

 前の年より法律科目の数が増えたし、内容も難しい。かといって、対策のために時間を十分にとることができず・・・

 基本的に今まで全教科でSがつくようにしてきて、去年は全教科とはいかないまでも大半の科目の評価はSだったが、今回は「単位さえくればいいや」と心のどこかで思ってしまうこともあった。そのような心の甘えから、この前書いたような大失敗・・・

 そして、精神的には貧しさを感じていた。というのも、2年生になって以来、法律の勉強とサークル活動に追われる日々で、読書のような精神的に満足を得られるような趣味を軽く扱わざるを得なくなってしまったからだ。

 サークル活動はともかく、確かに法律の勉強をすることは好きだ。しかし、どうも最近の自分は意識が法律に向かいすぎているような気がする。大学入学当初はそれこそ「法律の勉強」なんて自分の読書の一環くらいにしか思っていなかったし、ある程度大学の勉強に力を入れるようになったとしても「法律の勉強」は自分の世界の中で有力な位置を占めるものの一つという認識だった。最近の自分を見ていると、あらゆる自分の精神的活動は「法律の勉強」に結びついていてそれに奉仕する役割を持つものに過ぎなくなってきてはいないかと危惧感を覚える。

 いくら法曹を目指して勉強している最中とはいえ、このように「法律」だけを考えるように(またはそれが世界の中心であるかのように)考えるのはまずい。万が一、自分が法曹になったとしてもそれでは「法律マシーン」になってはしまわないか・・・確かに司法試験は厳しい試験だろうし合格するには何かを犠牲にしなければならないだろう。しかし、学部生である以上は他のことに気を配って精神の豊かさを求めることもまた許されるのではないか・・・

 現在出来る修正としては①「法律の勉強」だけでなく「法学を学ぶ」という視点も持つこと②教養への志向(又は憧れ?)を回復し入学当初の自分の姿を見直すことだろう。

 ここで今月の反省は終わる。どうも最近は自分の内面について書く日記が増えた(元からそうであったが)気がする。夏休みという長い時間があるからには、リアルでの活動を充実させていきたいところ。

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 空気が変わっていた。

 脇を見れば焼きソバ、たこ焼き、かき氷と屋台が並ぶ。暗くなりゆく空と対照的に、屋台は明かりを道行く人々に提供している。この時間の明かりを支配しているのは屋台であった。食べ物の匂い。普段より食欲をそそる。浴衣姿の人。どこかで見知った顔もいたかもしれない。 荘厳な神輿。それを担ぐ男たちの勇壮な姿。和太鼓と笛の音。祭囃子が聞こえてくる。私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。

 ただ、気が付いたことがある。ここは昨日鬱々とした気分で歩いたあの町であったのだ。


 祭りと聞くと、近所の夏祭りが思い出される。祭りがあると聞くとうきうきとした気分になったものであった。お小遣いを握りしめ、かき氷にしようかたこ焼きにしようかと随分悩んだものであった。

 冷静になって考えると、屋台で買う食べ物は、普段その辺のスーパーマーケットでもっと安く買える。味だって屋台のがスーパーのより美味しいということはあまりないだろう。それでも人は屋台に並ぶ。およそ経済的に見て合理性がないだろうことに魅力を感じるのは、「祭り」という「場」の持つ力だろう。

 祭りとは一般的に、神事など、宗教的な意味合いを持った行事である。現代では世俗的な部分も増えてはいるものの、「宗教的」な部分は必ず存在する。また、地域共同体を結びつける行事でもある。

 精神的な側面としては、祭りは非日常を演出する。「普段」とは違った雰囲気・空気が生まれるのである。ひとたび祭りの場に入ると人々の心は高揚する。そして、「日常」からの解放感を覚えるのである。

 自分は「祭り」を持っているだろうか。自分の生活の中にいかばかりの「非日常」があるのだろうか。

 日々の生活を見直してみると、細部では多少の差異が認められるもののどれも同じようなパターンを繰り返しているように思えてならない。朝起き、大学に行き、勉強し、帰る。そして、これらの中身をそれぞれ検討してみてもやはり似ている。違いなんて、勉強するのが民法か刑法かぐらいだろう。本質的差異はない。「日常」しか存在しない毎日なのである。

 すると自分の大学生活は「日常」を繰り返して終わるのではないかと考える。この鬱々とした日々があと2年半も続くのかと思ってしまう。また、去年の4月から振り返ってみても、1日1日は同質な無機質な繰り返し。

 僕は嘗て、大学生活を刺激的だと思ったことが会った。しかし、やがて飽きが生じる。転がりを止めた岩には苔が生える。大学生活という岩にも苔が生えた。

 「日常」からの解放はあるのだろうか。「日常」が永続する鬱屈間からの「癒し」、「救い」は存在するのだろうか。

 それはない。

 ただ何もせず、「日常」から解放されることを待っているだけでは何もない。

 「日常」からエスケープせよ。「日常」を転覆せよ、革命を起こせ。そして「非日常」を演出しよう。能動的な行為なくして現状を変えることは出来ない。自分に「祭り」を起こさねばならない。まだ何をすれば「祭り」が生まれるのかは分からない。それは難しいことかもしれない。意外に簡単なことかもしれない。ただ「○○すればいいのでは?」的な安易な答えの中にはないだろう。なぜなら「何をする」ということだけが問題なわけではなく「いかに非日常を追求するか」のプロセスを追求するという行為が結果と結合しなければいけないのだ。

 あの高揚感、解放感が必要だ。精神世界が浄化されるような「祭り」が必要だ。

 僕の夏休みの主題はこれだ。「祭り」という名の「非日常」を求める夏休みにしたい。

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先程、とある法律科目の試験を終えてきたところ。

単位くらいは、と甘く見ていたら、全くといっていいほど解けなかった。先生の救済措置が働けばギリギリいけるかもしれないが、答案のできが最悪だったことは変わらない。

ヤマを外した、といえば言い訳じみている。確かにヤマを外した。

しかし、問題なのはヤマを外したことではなく、ヤマが当たることに過度の期待をして、最悪のケースを全く想定していなかったことだ。ヤマを張って細かいところはやらなかった。教科書の七割程度しか勉強せずにいた。満遍なく全体をやっていなかった。

自分の予想は裏切られることはない。そういった「甘え」が存在していた。自分ならできる。そういった「慢心」が存在していた。

この失敗で失ったことはたくさんある。まず、(密かに狙っていた)成績優秀者に与えられる学部長賞は絶対に無理になっただろう。特待生待遇も怪しくなってきた。また、将来的にロースクール進学を考えていて両親ともある程度は話し合っていたが、この交渉も不利になる。(そもそも法律家としての素養もかなり怪しいのではないか?)

絶望的な気持ちでこの文を書いている。

これを教訓に出来るかは自分次第だ。できなければ希望はない。

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