模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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自分が「ぼっち」であるという事実。
以前、知り合いと会話している際についつい口が滑って、
「僕って友達いないんスよね~w」
といってしまったところ、その人の引きつった顔が忘れられない。そのあと「嫌だなア、冗談ッスよ」と言い直しておいたから大丈夫かもしれないが、友達がいないことを公言することがどれだけリスク高いことか気づかされた。
ネット上では「ぼっち」に関する書き込みをよく見かけるが、そう書いている人もなんだかんだいって友達が二桁くらいいるわけで、僕のような真性ぼっち(大学に友達ゼロ)は珍しい存在かもしれない。
そして、もっと重要なのは、そういった「ぼっち」のような欠点を他人にさらけ出してしまったら、舐められ、以後の関係は居心地の悪いものになるということ。人というのは、どこか自分の頭の中で、知り合った人間を全て自分より上か下かで判断しているものだから、欠点を自分からさらすことはリスキーだ。
そうやって欠点がばれてしまった相手とは縁を切りたいと思うことすらたまにある。
以前、知り合いと会話している際についつい口が滑って、
「僕って友達いないんスよね~w」
といってしまったところ、その人の引きつった顔が忘れられない。そのあと「嫌だなア、冗談ッスよ」と言い直しておいたから大丈夫かもしれないが、友達がいないことを公言することがどれだけリスク高いことか気づかされた。
ネット上では「ぼっち」に関する書き込みをよく見かけるが、そう書いている人もなんだかんだいって友達が二桁くらいいるわけで、僕のような真性ぼっち(大学に友達ゼロ)は珍しい存在かもしれない。
そして、もっと重要なのは、そういった「ぼっち」のような欠点を他人にさらけ出してしまったら、舐められ、以後の関係は居心地の悪いものになるということ。人というのは、どこか自分の頭の中で、知り合った人間を全て自分より上か下かで判断しているものだから、欠点を自分からさらすことはリスキーだ。
そうやって欠点がばれてしまった相手とは縁を切りたいと思うことすらたまにある。
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大学生活も短いもので、あと半年ほどになってしまった。このブログは一応大学一年生のときから書いてきたわけで、読み返せばあの時どのように考えていたかすぐに思い出せるし、ブログやツイッターに記録として残さなかった出来事もそれなりに頭の中に記憶として残っている。
僕の(他人から見れば)つまらない大学生活をざっと振り返ってみると、
1年:サークル中心の生活だが「サ-クル内ぼっち」に悩む日々。勉強と読書中心の生活にしたかったという当初の願望とのギャップに葛藤する日々。
2年:サークル活動にも慣れ、それなりに安定した精神状態。後期にはサークルを辞めたり学部の友人関係孤立化という出来事。学内無縁社会化。
3年:回復の日々。それなりに知り合いが増える。友達はいない。
4年:現在。
という感じだった。このブログやツイッターを読んでくれている人には言うまでもないことかもしれない。
そして、僕の大学生活を表すキーワードは何かというと「勉強と読書中心の生活」だった。入学当初は目標を見失っていたが、しばらくすると大学でお勉強を頑張ろうと思うようになり、一時期は司法試験受けるとか言いはじめて(結局本格的に勉強する前に撤退したという黒歴史)、だけど次第に「勉強と読書中心の生活」に興味を失ってきて、3年からはよくある「大学生活」(全てにおいてホドホドを信条とする生活スタイル)にも憧れもしたけれど、むしろそれなりに「勉強と読書中心の生活」も実現できるようになってきて、だけど実際に体験してみることで味気なさにも気が付いてきた。
その「勉強と読書中心の生活」を言うときの僕はいつも肩肘張っていた。これこそが至上のものと思い込み、例えばサークル活動や飲み会といった所謂「遊び」の要素を軽蔑する感情とともに用いていた。
「勉強と読書中心の生活」にかけた思いというのは、もちろん僕はそれなりに「勉強」も「読書」も好きなわけで、インドア生活を満喫したいというのもあったけれど、実を言うと「勉強と読書」を通じて自分の知的レベルを向上させることで何らかの「救い」があるのではないかというのもあった。この点に関しては、確かに「就活では勉強ばかりしていた学生は不利」という言説を昔から知っていたなど、それの正しさを絶対的に信じていたわけではないけれど、やはりどこかでアテにしていた面もあったのではないかと「自己分析」している。
それはなぜかというと、僕みたいな「非リア」にとっては「自己成長」させる大学生活はほとんど無縁で(それどころか知り合いすら少ないのだから)、「自己成長」の手段(と思い込んでいる)としてもっとも手近なのは「勉強と読書」による知的レベルの向上だと思っていたからだ。行き場のない感情をぶつける対象だったのかもしれない。
ところが、現状はそうでもない。
実際の所、大学生活を振り返ってみると、「自己成長」できたのではないかと考えるのはほとんど全て他人と関わったりしたときだった。「サークル内ぼっち」だったサークル活動だって、そのなかでの人間関係で考えたことは、独りよがりに本ばかり読もうとしていたときよりも有益だったと思う。充実感を感じるのも、1人でシコシコ勉強しているときよりも、誰かと何かをするときだったと思う。
こうやって考えていくと、何故自分が一時的とはいえ、司法試験云々の話をしていたかも分かる。資格試験はお勉強で突破できるもので、お勉強は非リアにとってもっとも身近に感じられる立身出世の手段であるからだ。司法試験を考え出したのは忙しすぎるサークル活動との矛盾に悩んでいたときで、そのような現状の問題点を一気に解消する(安易な)手段として難関資格を考えたのだ。(このことと対比して、「意識の高い学生」を考えてみよう。彼らは大学1年2年生の頃から就活を見据えて学生団体やビジネスうんたらかんたらの活動をしている。そのような活動によって自己を向上させ、大手企業の難関をクリアできるよう自分に磨きをかけている。しかし、僕みたいな生粋のインドア系非リアにはそういった活動はできない。「自分に磨きをかける」活動として手近なのは勉強しかないと思っていた。)
しかし、それは妄想に近い。仮に司法試験に合格したとしても弁護士として活動していくには普通の企業で行う以上に「営業」が必要になるし、そもそも法律事務所に就職するにはコミュニケーション能力がひつようであるからだ。(こういったことを考えると、「非リア」や「コミュ障」で司法試験を考えている人が疑問でならない。たしかに民間企業や公務員の就活のように面接で合否が決する試験ではないが合格後に求められるコミュニケーション能力は営業職に就くのとどれだけの差があるのだろうか。資格を得るのにコミュニケーション能力が扶養という点では「非リア」「コミュ障」にも門戸は開かれているが、門をくぐったあとに挫折する可能性が高いことを思えば、どうしてそんな無鉄砲な選択が出来るのだろうか。そしてどうして僕はそんな無鉄砲な選択をしようとしたのか。)
そんなわけで、何がいいたいかというと「勉強と読書中心の生活」を望んだ心の裏には、現実を顧みない逃避的な発想があったということ。逆に言えば、現在はそのような発想を抜け出して、以前よりは現実に目を向けた、地に足のついた発想ができるようになったきたということだろう。
僕の(他人から見れば)つまらない大学生活をざっと振り返ってみると、
1年:サークル中心の生活だが「サ-クル内ぼっち」に悩む日々。勉強と読書中心の生活にしたかったという当初の願望とのギャップに葛藤する日々。
2年:サークル活動にも慣れ、それなりに安定した精神状態。後期にはサークルを辞めたり学部の友人関係孤立化という出来事。学内無縁社会化。
3年:回復の日々。それなりに知り合いが増える。友達はいない。
4年:現在。
という感じだった。このブログやツイッターを読んでくれている人には言うまでもないことかもしれない。
そして、僕の大学生活を表すキーワードは何かというと「勉強と読書中心の生活」だった。入学当初は目標を見失っていたが、しばらくすると大学でお勉強を頑張ろうと思うようになり、一時期は司法試験受けるとか言いはじめて(結局本格的に勉強する前に撤退したという黒歴史)、だけど次第に「勉強と読書中心の生活」に興味を失ってきて、3年からはよくある「大学生活」(全てにおいてホドホドを信条とする生活スタイル)にも憧れもしたけれど、むしろそれなりに「勉強と読書中心の生活」も実現できるようになってきて、だけど実際に体験してみることで味気なさにも気が付いてきた。
その「勉強と読書中心の生活」を言うときの僕はいつも肩肘張っていた。これこそが至上のものと思い込み、例えばサークル活動や飲み会といった所謂「遊び」の要素を軽蔑する感情とともに用いていた。
「勉強と読書中心の生活」にかけた思いというのは、もちろん僕はそれなりに「勉強」も「読書」も好きなわけで、インドア生活を満喫したいというのもあったけれど、実を言うと「勉強と読書」を通じて自分の知的レベルを向上させることで何らかの「救い」があるのではないかというのもあった。この点に関しては、確かに「就活では勉強ばかりしていた学生は不利」という言説を昔から知っていたなど、それの正しさを絶対的に信じていたわけではないけれど、やはりどこかでアテにしていた面もあったのではないかと「自己分析」している。
それはなぜかというと、僕みたいな「非リア」にとっては「自己成長」させる大学生活はほとんど無縁で(それどころか知り合いすら少ないのだから)、「自己成長」の手段(と思い込んでいる)としてもっとも手近なのは「勉強と読書」による知的レベルの向上だと思っていたからだ。行き場のない感情をぶつける対象だったのかもしれない。
ところが、現状はそうでもない。
実際の所、大学生活を振り返ってみると、「自己成長」できたのではないかと考えるのはほとんど全て他人と関わったりしたときだった。「サークル内ぼっち」だったサークル活動だって、そのなかでの人間関係で考えたことは、独りよがりに本ばかり読もうとしていたときよりも有益だったと思う。充実感を感じるのも、1人でシコシコ勉強しているときよりも、誰かと何かをするときだったと思う。
こうやって考えていくと、何故自分が一時的とはいえ、司法試験云々の話をしていたかも分かる。資格試験はお勉強で突破できるもので、お勉強は非リアにとってもっとも身近に感じられる立身出世の手段であるからだ。司法試験を考え出したのは忙しすぎるサークル活動との矛盾に悩んでいたときで、そのような現状の問題点を一気に解消する(安易な)手段として難関資格を考えたのだ。(このことと対比して、「意識の高い学生」を考えてみよう。彼らは大学1年2年生の頃から就活を見据えて学生団体やビジネスうんたらかんたらの活動をしている。そのような活動によって自己を向上させ、大手企業の難関をクリアできるよう自分に磨きをかけている。しかし、僕みたいな生粋のインドア系非リアにはそういった活動はできない。「自分に磨きをかける」活動として手近なのは勉強しかないと思っていた。)
しかし、それは妄想に近い。仮に司法試験に合格したとしても弁護士として活動していくには普通の企業で行う以上に「営業」が必要になるし、そもそも法律事務所に就職するにはコミュニケーション能力がひつようであるからだ。(こういったことを考えると、「非リア」や「コミュ障」で司法試験を考えている人が疑問でならない。たしかに民間企業や公務員の就活のように面接で合否が決する試験ではないが合格後に求められるコミュニケーション能力は営業職に就くのとどれだけの差があるのだろうか。資格を得るのにコミュニケーション能力が扶養という点では「非リア」「コミュ障」にも門戸は開かれているが、門をくぐったあとに挫折する可能性が高いことを思えば、どうしてそんな無鉄砲な選択が出来るのだろうか。そしてどうして僕はそんな無鉄砲な選択をしようとしたのか。)
そんなわけで、何がいいたいかというと「勉強と読書中心の生活」を望んだ心の裏には、現実を顧みない逃避的な発想があったということ。逆に言えば、現在はそのような発想を抜け出して、以前よりは現実に目を向けた、地に足のついた発想ができるようになったきたということだろう。
最後の更新が去年の4月6日だった。一年弱といったところ。それから今日まで、レポートやゼミ発表の報告のような課題として貸される場合以外、私的に長い文章を書くことはほとんどなく、こうやってキーボードの前に向かって自分自身について考えたり表現したりするのも久しぶりだ。
文体というほどの確立されたものがあったわけでもないが、しばらく更新していなかったせいで、文章の癖のようなものも変わってしまっているのかもしれない。気が付いたことがあれば教えてほしい。
最後の更新が去年の今頃とはいえ、その前から更新はサボりがちだったから、僕の近況も知らせていないことが多い。ツイッターを見てくれている人は(ツイッターのフォロワーさんがいたらこっそり教えてくださいw拍手ボタンを押せば管理人のみに見えるようにコメントできますので)大体分かるだろうけど、そうじゃない人にとっては謎だろう。
大学二年生の秋頃に本格的に「ぼっち」化したことは書いただろうから、その後について。
「ぼっち」化した後の精神状況は最悪といってもいいくらいだったが、だんだんと回復していき、大学3年はこれまでの生活の中でももっとも安定していた。
良好な精神状態のもと、少しずつ交友関係を広げていき、何人かとは会ったら話す程度の「知り合い」関係(「友達」と呼べるほど親しくはない)になれた。研究者志望者、司法試験受験組、共産趣味者、右翼と充実した面々だと思う。特に、とある授業のメンバーにはお世話になり、先生を中心に囲んで楽しい時を過ごすことができた。これは3年生で一番楽しい思い出だったと思っている。
こんなことを言うと「それってもはやぼっちではないのでは?」とチンカスみたいな指摘が十中八九やってくるが、彼ら彼女らとの仲は友達と呼べるほど親密でもないし、連絡を取り合うことも学校外で合うこともほとんどないのだから、「友達」と呼ぶのは不適切だと思うし、僕の孤独感自体は緩和こそすれ、何も根本的には解決していないのだから、その指摘は正しくないと思う。とはいえ、ナニが「ぼっち」なのか、その定義(僕にとっては「友達がいない」ことだが)が人によって違うのだろうから、この話をするのは定義を正確に定めた後でないと全く意味がない、不毛なものになってしまうだろう。
このブログを更新している頃は、勉強がどーのこーのとうるさかったが、その甲斐あってではないだろうが、いくつかの資格をゲットでき、履歴書を埋めるのには役立つ。大学の成績は落ちていない。しかし、成績を争う友人ももはやいなくなり、成績の良し悪しによって表彰される機会は主席以外は3年生以上の学生にはない(この辺は学内者じゃないとわかりにくい?)から、成績についての関心は僕の髪の毛くらい薄くなった。
司法試験は撤退した。
講座を受けあまり向いていない気がして、撤退については二年生の頃から考えていたが、このままずるずると仮性包茎のチンコの皮のように伸ばし伸ばしするのはよくないと思って3年に上がる前にはスッパリ司法試験という選択肢をポアした。特に試験勉強に熱中するでもなく、特に法曹になりたいわけでもなかったのだから賢明な選択だったと思うが、それだったらはじめからこの選択肢を考えずにいれば、講座の代金と時間が浮いたのにと思って少々悔しい。
アルバイトを始めた。地元の塾講師をしている。月収は少ないがそれ以外に不満はない。
ゼミに入った。出席率100%である。
読書量は減った。今年に入ってまだ5冊くらいしか読んでいないと思う。読書への関心が薄まったわけではないが、生活の忙しさが原因である。
大学入学時には4年間で1000冊読破と息巻いていたが、僕にとっての1000冊読破計画とは、「多読」どころか「乱読」でもなく、いうなれば「雑読」か、いや、漢字二文字で無理やり表さなければ「ページめくり」だった。多読を批判するつもりはないが、僕にとって足りないというか欲しいのは専門的な学問を通して得られる体系性、そこまで硬いことを言わなければ、系統だった知識・関連付けられた知識だった。ある程度生活に余力ができれば読書を再開したいが、そのときは計画を立てて勉強するような気持ちで読んでいきたい。
ちなみにまだ童貞である。それどころか彼女もいない。安心してくれ。
文体というほどの確立されたものがあったわけでもないが、しばらく更新していなかったせいで、文章の癖のようなものも変わってしまっているのかもしれない。気が付いたことがあれば教えてほしい。
最後の更新が去年の今頃とはいえ、その前から更新はサボりがちだったから、僕の近況も知らせていないことが多い。ツイッターを見てくれている人は(ツイッターのフォロワーさんがいたらこっそり教えてくださいw拍手ボタンを押せば管理人のみに見えるようにコメントできますので)大体分かるだろうけど、そうじゃない人にとっては謎だろう。
大学二年生の秋頃に本格的に「ぼっち」化したことは書いただろうから、その後について。
「ぼっち」化した後の精神状況は最悪といってもいいくらいだったが、だんだんと回復していき、大学3年はこれまでの生活の中でももっとも安定していた。
良好な精神状態のもと、少しずつ交友関係を広げていき、何人かとは会ったら話す程度の「知り合い」関係(「友達」と呼べるほど親しくはない)になれた。研究者志望者、司法試験受験組、共産趣味者、右翼と充実した面々だと思う。特に、とある授業のメンバーにはお世話になり、先生を中心に囲んで楽しい時を過ごすことができた。これは3年生で一番楽しい思い出だったと思っている。
こんなことを言うと「それってもはやぼっちではないのでは?」とチンカスみたいな指摘が十中八九やってくるが、彼ら彼女らとの仲は友達と呼べるほど親密でもないし、連絡を取り合うことも学校外で合うこともほとんどないのだから、「友達」と呼ぶのは不適切だと思うし、僕の孤独感自体は緩和こそすれ、何も根本的には解決していないのだから、その指摘は正しくないと思う。とはいえ、ナニが「ぼっち」なのか、その定義(僕にとっては「友達がいない」ことだが)が人によって違うのだろうから、この話をするのは定義を正確に定めた後でないと全く意味がない、不毛なものになってしまうだろう。
このブログを更新している頃は、勉強がどーのこーのとうるさかったが、その甲斐あってではないだろうが、いくつかの資格をゲットでき、履歴書を埋めるのには役立つ。大学の成績は落ちていない。しかし、成績を争う友人ももはやいなくなり、成績の良し悪しによって表彰される機会は主席以外は3年生以上の学生にはない(この辺は学内者じゃないとわかりにくい?)から、成績についての関心は僕の髪の毛くらい薄くなった。
司法試験は撤退した。
講座を受けあまり向いていない気がして、撤退については二年生の頃から考えていたが、このままずるずると仮性包茎のチンコの皮のように伸ばし伸ばしするのはよくないと思って3年に上がる前にはスッパリ司法試験という選択肢をポアした。特に試験勉強に熱中するでもなく、特に法曹になりたいわけでもなかったのだから賢明な選択だったと思うが、それだったらはじめからこの選択肢を考えずにいれば、講座の代金と時間が浮いたのにと思って少々悔しい。
アルバイトを始めた。地元の塾講師をしている。月収は少ないがそれ以外に不満はない。
ゼミに入った。出席率100%である。
読書量は減った。今年に入ってまだ5冊くらいしか読んでいないと思う。読書への関心が薄まったわけではないが、生活の忙しさが原因である。
大学入学時には4年間で1000冊読破と息巻いていたが、僕にとっての1000冊読破計画とは、「多読」どころか「乱読」でもなく、いうなれば「雑読」か、いや、漢字二文字で無理やり表さなければ「ページめくり」だった。多読を批判するつもりはないが、僕にとって足りないというか欲しいのは専門的な学問を通して得られる体系性、そこまで硬いことを言わなければ、系統だった知識・関連付けられた知識だった。ある程度生活に余力ができれば読書を再開したいが、そのときは計画を立てて勉強するような気持ちで読んでいきたい。
ちなみにまだ童貞である。それどころか彼女もいない。安心してくれ。
まず、特別給費奨学金の継続採用が決定し、今年も引き続き大学に通えることが決まった。これは授業料全額免除の奨学金であるが、維持すること自体は全然難しくないことを先に言っておく。特待維持というとナンだか僕が成績優秀みたいに思われてしまいミスリードになりかねないから正直に言うと、実際の成績はそんなに優秀じゃない。僕の大学に特奨金で入学する方は安心してほしい。
成績発表があり、少しだけ上がった。2年生の前期では成績急落となったが、何とか持ち直した。一番笑ってしまったのは、この前の試験で対策が間に合わず捨ててしまった科目が単位がきていたことである。試験のときは問題文を一目見た瞬間白紙で提出しようと思ったけど、まあ悪あがきでもと自由作文をしてみたら大丈夫だった。評価も意外と高かった。勉強なしで単位が来るのはもうないであろう。
そんでもって3年生になった。キャンパスが変わった。秋葉原が定期券で行けるようになった。
現在は、授業は始まっていない。何の授業を履修するかを決定する準備の段階である。
今週は用もないのに毎日大学に行っていたため、ちょっと疲れている。でも、刺激的なこともたくさんあり、楽しい一週間だった。なんたって、誰とも話さなかった春休みとは違い、大学にいけば(僕みたいなぼっち学生でも)誰かしらの知り合いがいるものだからである。
だんだん暖かくなってくる日々に、これからのことを考えている。三年目で変わることとといえば、ゼミが始まることと、授業時間数が少なくなることである。これはおそらく、個々の学生がこれまで以上に主体的に物事に取り組むことができる環境になったということであろう。これはチャンスだと思う。
ああ、この一週間でいろいろあった。今年度は最初から調子がいいような気がする。最初がよくても最後のほうで失速してはいけないけど、スタートとしてはよろしいほうだ。それでは。
成績発表があり、少しだけ上がった。2年生の前期では成績急落となったが、何とか持ち直した。一番笑ってしまったのは、この前の試験で対策が間に合わず捨ててしまった科目が単位がきていたことである。試験のときは問題文を一目見た瞬間白紙で提出しようと思ったけど、まあ悪あがきでもと自由作文をしてみたら大丈夫だった。評価も意外と高かった。勉強なしで単位が来るのはもうないであろう。
そんでもって3年生になった。キャンパスが変わった。秋葉原が定期券で行けるようになった。
現在は、授業は始まっていない。何の授業を履修するかを決定する準備の段階である。
今週は用もないのに毎日大学に行っていたため、ちょっと疲れている。でも、刺激的なこともたくさんあり、楽しい一週間だった。なんたって、誰とも話さなかった春休みとは違い、大学にいけば(僕みたいなぼっち学生でも)誰かしらの知り合いがいるものだからである。
だんだん暖かくなってくる日々に、これからのことを考えている。三年目で変わることとといえば、ゼミが始まることと、授業時間数が少なくなることである。これはおそらく、個々の学生がこれまで以上に主体的に物事に取り組むことができる環境になったということであろう。これはチャンスだと思う。
ああ、この一週間でいろいろあった。今年度は最初から調子がいいような気がする。最初がよくても最後のほうで失速してはいけないけど、スタートとしてはよろしいほうだ。それでは。