模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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大学生活も短いもので、あと半年ほどになってしまった。このブログは一応大学一年生のときから書いてきたわけで、読み返せばあの時どのように考えていたかすぐに思い出せるし、ブログやツイッターに記録として残さなかった出来事もそれなりに頭の中に記憶として残っている。
僕の(他人から見れば)つまらない大学生活をざっと振り返ってみると、
1年:サークル中心の生活だが「サ-クル内ぼっち」に悩む日々。勉強と読書中心の生活にしたかったという当初の願望とのギャップに葛藤する日々。
2年:サークル活動にも慣れ、それなりに安定した精神状態。後期にはサークルを辞めたり学部の友人関係孤立化という出来事。学内無縁社会化。
3年:回復の日々。それなりに知り合いが増える。友達はいない。
4年:現在。
という感じだった。このブログやツイッターを読んでくれている人には言うまでもないことかもしれない。
そして、僕の大学生活を表すキーワードは何かというと「勉強と読書中心の生活」だった。入学当初は目標を見失っていたが、しばらくすると大学でお勉強を頑張ろうと思うようになり、一時期は司法試験受けるとか言いはじめて(結局本格的に勉強する前に撤退したという黒歴史)、だけど次第に「勉強と読書中心の生活」に興味を失ってきて、3年からはよくある「大学生活」(全てにおいてホドホドを信条とする生活スタイル)にも憧れもしたけれど、むしろそれなりに「勉強と読書中心の生活」も実現できるようになってきて、だけど実際に体験してみることで味気なさにも気が付いてきた。
その「勉強と読書中心の生活」を言うときの僕はいつも肩肘張っていた。これこそが至上のものと思い込み、例えばサークル活動や飲み会といった所謂「遊び」の要素を軽蔑する感情とともに用いていた。
「勉強と読書中心の生活」にかけた思いというのは、もちろん僕はそれなりに「勉強」も「読書」も好きなわけで、インドア生活を満喫したいというのもあったけれど、実を言うと「勉強と読書」を通じて自分の知的レベルを向上させることで何らかの「救い」があるのではないかというのもあった。この点に関しては、確かに「就活では勉強ばかりしていた学生は不利」という言説を昔から知っていたなど、それの正しさを絶対的に信じていたわけではないけれど、やはりどこかでアテにしていた面もあったのではないかと「自己分析」している。
それはなぜかというと、僕みたいな「非リア」にとっては「自己成長」させる大学生活はほとんど無縁で(それどころか知り合いすら少ないのだから)、「自己成長」の手段(と思い込んでいる)としてもっとも手近なのは「勉強と読書」による知的レベルの向上だと思っていたからだ。行き場のない感情をぶつける対象だったのかもしれない。
ところが、現状はそうでもない。
実際の所、大学生活を振り返ってみると、「自己成長」できたのではないかと考えるのはほとんど全て他人と関わったりしたときだった。「サークル内ぼっち」だったサークル活動だって、そのなかでの人間関係で考えたことは、独りよがりに本ばかり読もうとしていたときよりも有益だったと思う。充実感を感じるのも、1人でシコシコ勉強しているときよりも、誰かと何かをするときだったと思う。
こうやって考えていくと、何故自分が一時的とはいえ、司法試験云々の話をしていたかも分かる。資格試験はお勉強で突破できるもので、お勉強は非リアにとってもっとも身近に感じられる立身出世の手段であるからだ。司法試験を考え出したのは忙しすぎるサークル活動との矛盾に悩んでいたときで、そのような現状の問題点を一気に解消する(安易な)手段として難関資格を考えたのだ。(このことと対比して、「意識の高い学生」を考えてみよう。彼らは大学1年2年生の頃から就活を見据えて学生団体やビジネスうんたらかんたらの活動をしている。そのような活動によって自己を向上させ、大手企業の難関をクリアできるよう自分に磨きをかけている。しかし、僕みたいな生粋のインドア系非リアにはそういった活動はできない。「自分に磨きをかける」活動として手近なのは勉強しかないと思っていた。)
しかし、それは妄想に近い。仮に司法試験に合格したとしても弁護士として活動していくには普通の企業で行う以上に「営業」が必要になるし、そもそも法律事務所に就職するにはコミュニケーション能力がひつようであるからだ。(こういったことを考えると、「非リア」や「コミュ障」で司法試験を考えている人が疑問でならない。たしかに民間企業や公務員の就活のように面接で合否が決する試験ではないが合格後に求められるコミュニケーション能力は営業職に就くのとどれだけの差があるのだろうか。資格を得るのにコミュニケーション能力が扶養という点では「非リア」「コミュ障」にも門戸は開かれているが、門をくぐったあとに挫折する可能性が高いことを思えば、どうしてそんな無鉄砲な選択が出来るのだろうか。そしてどうして僕はそんな無鉄砲な選択をしようとしたのか。)
そんなわけで、何がいいたいかというと「勉強と読書中心の生活」を望んだ心の裏には、現実を顧みない逃避的な発想があったということ。逆に言えば、現在はそのような発想を抜け出して、以前よりは現実に目を向けた、地に足のついた発想ができるようになったきたということだろう。
僕の(他人から見れば)つまらない大学生活をざっと振り返ってみると、
1年:サークル中心の生活だが「サ-クル内ぼっち」に悩む日々。勉強と読書中心の生活にしたかったという当初の願望とのギャップに葛藤する日々。
2年:サークル活動にも慣れ、それなりに安定した精神状態。後期にはサークルを辞めたり学部の友人関係孤立化という出来事。学内無縁社会化。
3年:回復の日々。それなりに知り合いが増える。友達はいない。
4年:現在。
という感じだった。このブログやツイッターを読んでくれている人には言うまでもないことかもしれない。
そして、僕の大学生活を表すキーワードは何かというと「勉強と読書中心の生活」だった。入学当初は目標を見失っていたが、しばらくすると大学でお勉強を頑張ろうと思うようになり、一時期は司法試験受けるとか言いはじめて(結局本格的に勉強する前に撤退したという黒歴史)、だけど次第に「勉強と読書中心の生活」に興味を失ってきて、3年からはよくある「大学生活」(全てにおいてホドホドを信条とする生活スタイル)にも憧れもしたけれど、むしろそれなりに「勉強と読書中心の生活」も実現できるようになってきて、だけど実際に体験してみることで味気なさにも気が付いてきた。
その「勉強と読書中心の生活」を言うときの僕はいつも肩肘張っていた。これこそが至上のものと思い込み、例えばサークル活動や飲み会といった所謂「遊び」の要素を軽蔑する感情とともに用いていた。
「勉強と読書中心の生活」にかけた思いというのは、もちろん僕はそれなりに「勉強」も「読書」も好きなわけで、インドア生活を満喫したいというのもあったけれど、実を言うと「勉強と読書」を通じて自分の知的レベルを向上させることで何らかの「救い」があるのではないかというのもあった。この点に関しては、確かに「就活では勉強ばかりしていた学生は不利」という言説を昔から知っていたなど、それの正しさを絶対的に信じていたわけではないけれど、やはりどこかでアテにしていた面もあったのではないかと「自己分析」している。
それはなぜかというと、僕みたいな「非リア」にとっては「自己成長」させる大学生活はほとんど無縁で(それどころか知り合いすら少ないのだから)、「自己成長」の手段(と思い込んでいる)としてもっとも手近なのは「勉強と読書」による知的レベルの向上だと思っていたからだ。行き場のない感情をぶつける対象だったのかもしれない。
ところが、現状はそうでもない。
実際の所、大学生活を振り返ってみると、「自己成長」できたのではないかと考えるのはほとんど全て他人と関わったりしたときだった。「サークル内ぼっち」だったサークル活動だって、そのなかでの人間関係で考えたことは、独りよがりに本ばかり読もうとしていたときよりも有益だったと思う。充実感を感じるのも、1人でシコシコ勉強しているときよりも、誰かと何かをするときだったと思う。
こうやって考えていくと、何故自分が一時的とはいえ、司法試験云々の話をしていたかも分かる。資格試験はお勉強で突破できるもので、お勉強は非リアにとってもっとも身近に感じられる立身出世の手段であるからだ。司法試験を考え出したのは忙しすぎるサークル活動との矛盾に悩んでいたときで、そのような現状の問題点を一気に解消する(安易な)手段として難関資格を考えたのだ。(このことと対比して、「意識の高い学生」を考えてみよう。彼らは大学1年2年生の頃から就活を見据えて学生団体やビジネスうんたらかんたらの活動をしている。そのような活動によって自己を向上させ、大手企業の難関をクリアできるよう自分に磨きをかけている。しかし、僕みたいな生粋のインドア系非リアにはそういった活動はできない。「自分に磨きをかける」活動として手近なのは勉強しかないと思っていた。)
しかし、それは妄想に近い。仮に司法試験に合格したとしても弁護士として活動していくには普通の企業で行う以上に「営業」が必要になるし、そもそも法律事務所に就職するにはコミュニケーション能力がひつようであるからだ。(こういったことを考えると、「非リア」や「コミュ障」で司法試験を考えている人が疑問でならない。たしかに民間企業や公務員の就活のように面接で合否が決する試験ではないが合格後に求められるコミュニケーション能力は営業職に就くのとどれだけの差があるのだろうか。資格を得るのにコミュニケーション能力が扶養という点では「非リア」「コミュ障」にも門戸は開かれているが、門をくぐったあとに挫折する可能性が高いことを思えば、どうしてそんな無鉄砲な選択が出来るのだろうか。そしてどうして僕はそんな無鉄砲な選択をしようとしたのか。)
そんなわけで、何がいいたいかというと「勉強と読書中心の生活」を望んだ心の裏には、現実を顧みない逃避的な発想があったということ。逆に言えば、現在はそのような発想を抜け出して、以前よりは現実に目を向けた、地に足のついた発想ができるようになったきたということだろう。
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