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大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
俺の数少ない趣味は読書で大学卒業までに1000冊読むことを目標とし月々のノルマを定めている。この計画は今年の2月末に本命の国立大学(もちろん落ちた)の入試が終わった直後に立てたものだ。大学生活に、読書を通じて幅広いものの見方を養ったり、知識をつけようと思った。
また、読んだ本の感想や重要部分の引用などをまとめたノートを作っている。ノート作りを始めたのは高3の冬、センター試験が終わった直後(本命の国立の2次試験を控えていたのにこんなことをしていた。だから落ちた)だったから結構長い。昨日、その読書ノートの3冊目が終了した所だった。
ノートを一冊終えると達成感を感じていた、今までは。今回はむなしさを感じた。
「こんなに冊数は多いのに、何が自分の頭に残ったといえるのか。」
ぱらぱらとノートをめくり、読んだ本のタイトルをざっと見返してみた。ほとんど内容が思い出せない。
内容が思い出せない本は主に冊数稼ぎのため、ノルマ達成の手段として読んだ、内容があまり無い、いわゆる「くだらない本」。「くだらない本」という言い方はよくないがまあここでは問題としない。
いくら冊数を稼ごうと、頭に残らなければ意味が無い。(ここでは「頭に残る」とは漠然としたものでもかまわないとする。詳細な内容が頭に残っているに越したことは無いが、ぼんやりとした記憶が残っているだけでも、それはそれで有益だと思うからだ。)
思うに読書というもの、いや、多読することは、それ自体が目的となることに大きな問題があるものだ。ドイツの哲学者ショーペンハウアーの名著「読書について」を持ち出すまでも無く、多読には「自分で考える」ことを妨げることがある(皮肉なことにこの本は1000冊読書の計画の一冊目として読んだ本だった。分かっていても実践できなかったのが悔しい)。多読の自己目的化だけは避けようと思っていたのにこのザマ。
最近こうやって反省することが多くなってきたし、読書ノートも新たに4冊目に入ったところだし、読書のあり方を改めてみようと思った。「あり方を改める」とはいっても特別なことはしない。自分が本心で読みたいと思った本を、じっくりと、内容のみならず文体や語句までかみ締めながら読んでいくだけだ。初心に帰るだけだ。
この「方法」と呼ぶまでも無い「方法」で、いわゆる「名著」や「古典」と呼ばれる本を読み、この経験を自分の財産にしていきたいものだ。