模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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考えたい。
この手の話は大学生活に「失敗」した連中が好きな話だ。自分も少なからず後悔はあるし、仮に人生をやり直せるなら、いくつかの汚点を修正する便宜どころか全く別の選択肢を選び続けることを望だろう。
「あの時ああしておけばよかった」の話は、過去の失敗や後悔への悪しき感情を幾分やわらげて自分を慰める事ができるという素晴らしい効用があるから、眠れない夜のお供にはうってつけで、そのまま夢の世界で甘美な非現実の世界をみせてもらえれば言うことはないだろう。
項目を分けて話す(ちなみにこの前置き、大学の試験でも頻繁に使用してたりして、例えば「●●という論点について、○○の立場から論ずる」みたいに文字数を稼いでいる)
住居)
大学から一時間以内の場所に借家したい。経済的には無理な相談だが。
サークル)
活動が忙しくなく、かつ、僕の関心にあうところに入りたい。具体的なサークル名も思い浮かぶがさすがにここに書くのは恥ずかしい。
もっとも、現在のサークルでも全く駄目なわけでもない。
バイト)
サークルは未加入でもバイトは一年の時からやっておきたかった。月々に数万円の小遣いが出るのでないなら、何かしらの収入は必要。
安月給のところで働いているが、経済状況は好転し、ある程度好きな物が買えるようになるし、
行動範囲も広まった。金がないと、定期券圏外に行くときの往復300円前後すら惜しいもの。ケチなだけでは金貯まるよりもストレス溜まる速度の方が早い。
そもそも勉強するのだって金が物を言う。大学の教科書や参考書は高い。
余談だが、司法試験の勉強に力が入らず放棄したことの遠因として、法律学の基本書や試験対策用の問題集を買う金に困ったことが考えられる。大学受験の時は、一冊千円前後の参考書の経済的負担はたかがしれたもので、バイトもしない収入(ちなみに月々のお小遣いは小学生の時に1000円だったのを最後に中学以降凍結されていた。そのくらいに貧乏な家だった)で体育会系の部活動で必要になる消耗品の購入という小さくない支出を抱えていた僕でも、お勉強のためのお金に困った記憶は無い。
ただ、多感な青春時代の消費行動にしては退屈すぎた。
友達)
ほしかった。
お勉強)
何か明確な軸がほしかった。
読書を通じた教養(呆れ顔)という曖昧模糊なモノよりも、もう少し具体的(例えば刑法の勉強を続けて詳しくなるとか英語を勉強してTOEICで○○点取る、くらいのレベルでもよい)に勉強するものを決められなかったかと後悔。
法律学でいうと、ただ教授指定の教科書読むのと板書で満足するのでなく、別の基本書も精読したり判例や論文を読んだりするくらい(現在ゼミでやってるくらい)でよい。何に興味があるかを考え、狭く深く勉強できなかったから、ツギハギだらけの知識がかろうじてあるかないか。
恋愛)
喪男としてスタートしたわけだが、世の中の通説に中指をたてるようなスタンスは良くなかった。「彼女ほしかったうわーん」といっても仕方がないが、あまり喪男を拗らせても仕方がない。
そういえば未だに恋愛が分からない。そのせいで、某人気小説家の某有名恋愛小説(?)を読んでもピンとこなかったり、白黒ながら現代にも語り継がれる某恋愛映画を観てもやはりわけわかめ。
前のブログでは深夜テンションとしか思えないような文章で○○が好きみたいな話をしていたが、そのようにおもえるような体験は大学では未だかつてこれ無し。
損してる気すらしてくるが、どうしょもない。
ちなみに萌えアニメなら恋愛が題材でも問題ナッシングだ。流石です。
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空気が変わっていた。
脇を見れば焼きソバ、たこ焼き、かき氷と屋台が並ぶ。暗くなりゆく空と対照的に、屋台は明かりを道行く人々に提供している。この時間の明かりを支配しているのは屋台であった。食べ物の匂い。普段より食欲をそそる。浴衣姿の人。どこかで見知った顔もいたかもしれない。 荘厳な神輿。それを担ぐ男たちの勇壮な姿。和太鼓と笛の音。祭囃子が聞こえてくる。私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。
ただ、気が付いたことがある。ここは昨日鬱々とした気分で歩いたあの町であったのだ。
祭りと聞くと、近所の夏祭りが思い出される。祭りがあると聞くとうきうきとした気分になったものであった。お小遣いを握りしめ、かき氷にしようかたこ焼きにしようかと随分悩んだものであった。
冷静になって考えると、屋台で買う食べ物は、普段その辺のスーパーマーケットでもっと安く買える。味だって屋台のがスーパーのより美味しいということはあまりないだろう。それでも人は屋台に並ぶ。およそ経済的に見て合理性がないだろうことに魅力を感じるのは、「祭り」という「場」の持つ力だろう。
祭りとは一般的に、神事など、宗教的な意味合いを持った行事である。現代では世俗的な部分も増えてはいるものの、「宗教的」な部分は必ず存在する。また、地域共同体を結びつける行事でもある。
精神的な側面としては、祭りは非日常を演出する。「普段」とは違った雰囲気・空気が生まれるのである。ひとたび祭りの場に入ると人々の心は高揚する。そして、「日常」からの解放感を覚えるのである。
自分は「祭り」を持っているだろうか。自分の生活の中にいかばかりの「非日常」があるのだろうか。
日々の生活を見直してみると、細部では多少の差異が認められるもののどれも同じようなパターンを繰り返しているように思えてならない。朝起き、大学に行き、勉強し、帰る。そして、これらの中身をそれぞれ検討してみてもやはり似ている。違いなんて、勉強するのが民法か刑法かぐらいだろう。本質的差異はない。「日常」しか存在しない毎日なのである。
すると自分の大学生活は「日常」を繰り返して終わるのではないかと考える。この鬱々とした日々があと2年半も続くのかと思ってしまう。また、去年の4月から振り返ってみても、1日1日は同質な無機質な繰り返し。
僕は嘗て、大学生活を刺激的だと思ったことが会った。しかし、やがて飽きが生じる。転がりを止めた岩には苔が生える。大学生活という岩にも苔が生えた。
「日常」からの解放はあるのだろうか。「日常」が永続する鬱屈間からの「癒し」、「救い」は存在するのだろうか。
それはない。
ただ何もせず、「日常」から解放されることを待っているだけでは何もない。
「日常」からエスケープせよ。「日常」を転覆せよ、革命を起こせ。そして「非日常」を演出しよう。能動的な行為なくして現状を変えることは出来ない。自分に「祭り」を起こさねばならない。まだ何をすれば「祭り」が生まれるのかは分からない。それは難しいことかもしれない。意外に簡単なことかもしれない。ただ「○○すればいいのでは?」的な安易な答えの中にはないだろう。なぜなら「何をする」ということだけが問題なわけではなく「いかに非日常を追求するか」のプロセスを追求するという行為が結果と結合しなければいけないのだ。
あの高揚感、解放感が必要だ。精神世界が浄化されるような「祭り」が必要だ。
僕の夏休みの主題はこれだ。「祭り」という名の「非日常」を求める夏休みにしたい。
脇を見れば焼きソバ、たこ焼き、かき氷と屋台が並ぶ。暗くなりゆく空と対照的に、屋台は明かりを道行く人々に提供している。この時間の明かりを支配しているのは屋台であった。食べ物の匂い。普段より食欲をそそる。浴衣姿の人。どこかで見知った顔もいたかもしれない。 荘厳な神輿。それを担ぐ男たちの勇壮な姿。和太鼓と笛の音。祭囃子が聞こえてくる。私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。
ただ、気が付いたことがある。ここは昨日鬱々とした気分で歩いたあの町であったのだ。
祭りと聞くと、近所の夏祭りが思い出される。祭りがあると聞くとうきうきとした気分になったものであった。お小遣いを握りしめ、かき氷にしようかたこ焼きにしようかと随分悩んだものであった。
冷静になって考えると、屋台で買う食べ物は、普段その辺のスーパーマーケットでもっと安く買える。味だって屋台のがスーパーのより美味しいということはあまりないだろう。それでも人は屋台に並ぶ。およそ経済的に見て合理性がないだろうことに魅力を感じるのは、「祭り」という「場」の持つ力だろう。
祭りとは一般的に、神事など、宗教的な意味合いを持った行事である。現代では世俗的な部分も増えてはいるものの、「宗教的」な部分は必ず存在する。また、地域共同体を結びつける行事でもある。
精神的な側面としては、祭りは非日常を演出する。「普段」とは違った雰囲気・空気が生まれるのである。ひとたび祭りの場に入ると人々の心は高揚する。そして、「日常」からの解放感を覚えるのである。
自分は「祭り」を持っているだろうか。自分の生活の中にいかばかりの「非日常」があるのだろうか。
日々の生活を見直してみると、細部では多少の差異が認められるもののどれも同じようなパターンを繰り返しているように思えてならない。朝起き、大学に行き、勉強し、帰る。そして、これらの中身をそれぞれ検討してみてもやはり似ている。違いなんて、勉強するのが民法か刑法かぐらいだろう。本質的差異はない。「日常」しか存在しない毎日なのである。
すると自分の大学生活は「日常」を繰り返して終わるのではないかと考える。この鬱々とした日々があと2年半も続くのかと思ってしまう。また、去年の4月から振り返ってみても、1日1日は同質な無機質な繰り返し。
僕は嘗て、大学生活を刺激的だと思ったことが会った。しかし、やがて飽きが生じる。転がりを止めた岩には苔が生える。大学生活という岩にも苔が生えた。
「日常」からの解放はあるのだろうか。「日常」が永続する鬱屈間からの「癒し」、「救い」は存在するのだろうか。
それはない。
ただ何もせず、「日常」から解放されることを待っているだけでは何もない。
「日常」からエスケープせよ。「日常」を転覆せよ、革命を起こせ。そして「非日常」を演出しよう。能動的な行為なくして現状を変えることは出来ない。自分に「祭り」を起こさねばならない。まだ何をすれば「祭り」が生まれるのかは分からない。それは難しいことかもしれない。意外に簡単なことかもしれない。ただ「○○すればいいのでは?」的な安易な答えの中にはないだろう。なぜなら「何をする」ということだけが問題なわけではなく「いかに非日常を追求するか」のプロセスを追求するという行為が結果と結合しなければいけないのだ。
あの高揚感、解放感が必要だ。精神世界が浄化されるような「祭り」が必要だ。
僕の夏休みの主題はこれだ。「祭り」という名の「非日常」を求める夏休みにしたい。
「何か生きた証を残したい」「何か新しい刺激を受けたい」それがネット上での活動を始めたきっかけだった。
僕がネット上での活動を始めたのは高校三年生の末期。大学受験でいうと直前期に当たる。たしか、早稲田大学の政治経済学部の入試を明後日に控えたときだった気がする。そして浪人時代にネット上の活動を本格的にはじめ、大学進学直前にmixiに入会し、大学一年の終わりごろにtwitterを始めた。
いろいろな所に表現活動の場所を求めた。ネットという空間は自由な空間だ。匿名性という特質を利用して、いとも易く内心を吐露することができる。見知らぬ人にいきなり話しかけられる。ネット上に出現した「カリスマ」ともコミュニケーションがとれる。自分と近い感覚を持つ人のハッとするような文章を読める。
その中で最近の僕が一番気に入っているのはtwitterだ。ブログからmixiへと活動のメインを移した後、今はそこにいる。
twitterは手軽さが最大の魅力。何か思いついたことがあってもブログに書くとなるとそれなりに長い文章(500字~1000字)になり、一つのことを表現するにも時間がかかる。また、ブログに書くほどの内容でもないときは躊躇してしまいがちだ。その点twitterなら最大で140字で済むわけだから、外出先で携帯電話からちょこっと書き込むだけで済む。
また、人間関係の微妙な距離感も魅力的だ。ブログの場合は自分の文章をどんな人が見てくれるか分からず、こちらから読者に対してコミュニケーションをとることはできない。かといってmixiの場合は関係が密すぎて、「マイミク」になるのは勇気がいる。mixiはリアルで知っている人、またはネット上でも仲のいい人とかかわるのに一番向いているようだ。twitterならば、いつでもフォローしていつでもフォローを外せる。
ブログに無い手軽さ、mixiに無い緩い人間関係を求めたのはなぜだろう。やはり大学生活で忙しくなったからなのだろうか。今の僕には大学の授業もあるし司法試験のための勉強もあるしサークル活動(忙しい所で)もある。それで長距離通学。フランクなツールが今の僕のニーズを一番よく満たしてくれるのだろう。
僕がネット上での活動を始めたのは高校三年生の末期。大学受験でいうと直前期に当たる。たしか、早稲田大学の政治経済学部の入試を明後日に控えたときだった気がする。そして浪人時代にネット上の活動を本格的にはじめ、大学進学直前にmixiに入会し、大学一年の終わりごろにtwitterを始めた。
いろいろな所に表現活動の場所を求めた。ネットという空間は自由な空間だ。匿名性という特質を利用して、いとも易く内心を吐露することができる。見知らぬ人にいきなり話しかけられる。ネット上に出現した「カリスマ」ともコミュニケーションがとれる。自分と近い感覚を持つ人のハッとするような文章を読める。
その中で最近の僕が一番気に入っているのはtwitterだ。ブログからmixiへと活動のメインを移した後、今はそこにいる。
twitterは手軽さが最大の魅力。何か思いついたことがあってもブログに書くとなるとそれなりに長い文章(500字~1000字)になり、一つのことを表現するにも時間がかかる。また、ブログに書くほどの内容でもないときは躊躇してしまいがちだ。その点twitterなら最大で140字で済むわけだから、外出先で携帯電話からちょこっと書き込むだけで済む。
また、人間関係の微妙な距離感も魅力的だ。ブログの場合は自分の文章をどんな人が見てくれるか分からず、こちらから読者に対してコミュニケーションをとることはできない。かといってmixiの場合は関係が密すぎて、「マイミク」になるのは勇気がいる。mixiはリアルで知っている人、またはネット上でも仲のいい人とかかわるのに一番向いているようだ。twitterならば、いつでもフォローしていつでもフォローを外せる。
ブログに無い手軽さ、mixiに無い緩い人間関係を求めたのはなぜだろう。やはり大学生活で忙しくなったからなのだろうか。今の僕には大学の授業もあるし司法試験のための勉強もあるしサークル活動(忙しい所で)もある。それで長距離通学。フランクなツールが今の僕のニーズを一番よく満たしてくれるのだろう。
「おーじゃ君の第一印象って、いわゆる嫌なやつだったんだよね」
クラスの人からこうに言われた。
僕は自分が「嫌なやつ」であることは誰よりも知っているし、認めてもいるから、「嫌なやつ」と思われていたことに関してはそこまでショックを受けることはない(だって、コメントとか見ると自分のことを「嫌なやつ」と思っていそうな人もたくさん見るし)
むしろ、この発言の後に「その印象は変わった」といわれて嬉しかった。また、直接に打ち明けてくれたことに尊敬の念を抱く。
その台詞を僕にいった人とは、そこまで仲がいいわけではない。
クラスが同じでも、一年生後期の、本当に最後の方になるまで話したことはなかった。出身も違うし、性別も違うし、「共通の友人」といえる人もいない。極めて最近になって話した人だ。
「印象が変わった」のはどういうプロセスだったのかは気になるが残念ながら聞く暇がなかった。ただ、一度悪い印象をもたれたとしても、何とかして回復できるのかもしれないと思った。
そしてそれは人間の関係性の中でのみ達成されることだ。もしも自分が他人に対して悪い印象を持っていたとしたら、その人のことをよく見直してみよう。もしかしたら何か変わるかもしれない。
クラスの人からこうに言われた。
僕は自分が「嫌なやつ」であることは誰よりも知っているし、認めてもいるから、「嫌なやつ」と思われていたことに関してはそこまでショックを受けることはない(だって、コメントとか見ると自分のことを「嫌なやつ」と思っていそうな人もたくさん見るし)
むしろ、この発言の後に「その印象は変わった」といわれて嬉しかった。また、直接に打ち明けてくれたことに尊敬の念を抱く。
その台詞を僕にいった人とは、そこまで仲がいいわけではない。
クラスが同じでも、一年生後期の、本当に最後の方になるまで話したことはなかった。出身も違うし、性別も違うし、「共通の友人」といえる人もいない。極めて最近になって話した人だ。
「印象が変わった」のはどういうプロセスだったのかは気になるが残念ながら聞く暇がなかった。ただ、一度悪い印象をもたれたとしても、何とかして回復できるのかもしれないと思った。
そしてそれは人間の関係性の中でのみ達成されることだ。もしも自分が他人に対して悪い印象を持っていたとしたら、その人のことをよく見直してみよう。もしかしたら何か変わるかもしれない。
定期的な人間関係のリセットは、ひょっとしたらかなり大切な要素なのかもしれない。(まあ、タイトルほどネガティブな内容ではないから安心してほしい。)
ここでいう「定期的な人間関係のリセット」とは、例えば学生でいえば進学やクラス替え、社会人でいえば転勤や転職のようなもので、何らかのきっかけによりその人に身近な人間関係が解体・再編されることをいう。
この「定期的な人間関係のリセット」は、当人にとってよい結果も悪い結果ももたらす。自分の経験では、中学1年のときのクラスは校内でも有名なDQNが何人もいるクラスで嫌な思いをしていたが進級によるクラス替えでDQNが少ない良いクラスに行けたことがあったり、高校2年のときの気の合う人が多かったクラスから一転高3のクラス替えで全く気の合わない人しかいないクラスになりぼっちを余儀なくされたことがあったりと、いいのやら悪いのやら。
しかし、そのような面があっても、なんとなく新鮮な気分にワクワクしたり、現状からの脱却を期待したり、反対に今の状況の維持を願ったりと、どこか刺激的なのではないかと思う。マンネリ化が避けられるのである。
今の自分には「人間関係のリセット」の機会はあまりないのではないか、もっと率直に言うと大学はクラス替えがなく、同じ人間関係がしばらく続くのではないかと思った。
今の人間関係は、少なくとも学部においてはそこそこ良好だと思うしそれなりに楽しい思いもしている。だが、もっと新しい出会いをしてみたいというのも事実で、新しい友人を作り新しい考えに触れてみたいとも思うのである。(もっとも、それに失敗してぼっちになるリスクもあるが・・・)
春というのは生命力の躍動ある季節だ。この季節ほど「新しい」ものが合うものはない。丁度芽吹き始めた新緑のようにみずみずしい刺激に触れてみたくなる季節である。僕は、どうしても閉鎖的なものとして観念してしまうこの現状に、春の新鮮な風を吹き入れたいと思うのである。
ここでいう「定期的な人間関係のリセット」とは、例えば学生でいえば進学やクラス替え、社会人でいえば転勤や転職のようなもので、何らかのきっかけによりその人に身近な人間関係が解体・再編されることをいう。
この「定期的な人間関係のリセット」は、当人にとってよい結果も悪い結果ももたらす。自分の経験では、中学1年のときのクラスは校内でも有名なDQNが何人もいるクラスで嫌な思いをしていたが進級によるクラス替えでDQNが少ない良いクラスに行けたことがあったり、高校2年のときの気の合う人が多かったクラスから一転高3のクラス替えで全く気の合わない人しかいないクラスになりぼっちを余儀なくされたことがあったりと、いいのやら悪いのやら。
しかし、そのような面があっても、なんとなく新鮮な気分にワクワクしたり、現状からの脱却を期待したり、反対に今の状況の維持を願ったりと、どこか刺激的なのではないかと思う。マンネリ化が避けられるのである。
今の自分には「人間関係のリセット」の機会はあまりないのではないか、もっと率直に言うと大学はクラス替えがなく、同じ人間関係がしばらく続くのではないかと思った。
今の人間関係は、少なくとも学部においてはそこそこ良好だと思うしそれなりに楽しい思いもしている。だが、もっと新しい出会いをしてみたいというのも事実で、新しい友人を作り新しい考えに触れてみたいとも思うのである。(もっとも、それに失敗してぼっちになるリスクもあるが・・・)
春というのは生命力の躍動ある季節だ。この季節ほど「新しい」ものが合うものはない。丁度芽吹き始めた新緑のようにみずみずしい刺激に触れてみたくなる季節である。僕は、どうしても閉鎖的なものとして観念してしまうこの現状に、春の新鮮な風を吹き入れたいと思うのである。