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模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
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男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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 恥を忍んでこの文を書いた。

 俺っていわゆる「いい子」だったと思う。小学生の時から高校生のときまで、先生の「言いつけ」に、ほとんど必ず従ってきた。「おとなしい子」として先生受けがよかった。勉強も、少なくとも、学校という小さな空間ではトップクラス(中学のころは何回か学年一位、高校では文系ではたぶん一番)の成績。服装は着崩さない。中学時代、3年連続学級委員的な役割に就任。真面目な生徒という立ち居地にいた。

 さらに言うならば、俺はこの「いい子」という立場を全く嫌に思っていなかった。「いい子」であることが俺の喜びだった。今でも「いい子」でいたいと思ってしまうくらいに。

 なんだ自慢か、と思われるかもしれない。決して自慢ではないから安心?してくれ。

 考えると、俺は先生から見ては「いい子」だったが、同級生から見て「いいヤツ」ではなかった。教室の「いい子」には実は友達が少なかった。付き合いは悪かった。そんな俺のダメな部分を見抜いた、「いいヤツ」の代表である、DQNグループとは常に仲が悪かった。

 さて、中学のころの担任でちょっと変わった先生がいた。その先生は俺の家に家庭訪問に来たときこういった。

 「おーじゃ君は先生受けはいいです」と。「先生受けは」の「は」をやたらに強調していたのを今でも覚えている。今でも思い出すたびに、苦い思い。

 先生は俺の「いい子ちゃん」としての部分を嫌っていたみたいだ。異色の教師だと思う。ただ、その家庭訪問の後、俺は学校で「いい子」とは違う、少し「個性的」な(自分で自分のことを「個性的」という醜さは感じるが、語彙力が少ないためほかの言い方が思い浮かばない)面を出すことができたため、先生からの評価はいくらかよくなった。

 散々自虐的なことを言ってきたが、それでも中学までは、昔からの知り合いが多いため、また、頑張って馬鹿をやっていたため、うまくやっていけた。

 高校・・・この辺は面倒だから省略

 現在の心境。

 思うに、学校(大学以前の)という「世間」の常識から少しズレた空間で「いい子」であることが、大学(さらにいうなら実社会でも?)でも必要とされることにはつながらない。「いい子」であることを評価してくれる、「学校の先生」はもう近くにいない。

 「いい子」であることに何の苦痛も感じない俺にとって、「いい子」であることを評価してくれる「学校」はどれだけ棲みやすいことだっただろう。

 それに比べて今の居心地の悪さ。「遊びよりもお勉強」「お家に寄り道せずまっすぐ帰る」「先生の言うことはしっかり聞く」これじゃあ通用しない。ノリが悪いとして「ダメ」と思われる。

 とっとと今の自分を脱却しないといけないのだが・・・

 今日もネガティブな記事でスイマセン。

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 このブログのタイトルは、今のところ「喪男浪漫・大学生活日記」だ。タイトルに「喪男」というワードがある。自分が「喪男である」から、自分が「喪男であること」を意識しているからそのような単語が入っている。

 ところで「、喪男」であることを名乗る、とは結構不思議なことであるかもしれないと思う。「喪男」とは単に「モテない」だけでなく「モテたいと思わない」ことも含む。(「モテたいと思わない」とは、主に、「鯛男のように積極的にモテたいと思わない」または「モテることを拒否する」といった二つの解釈があるのではないかと思う。)「モテたいと思わない」とは、つまり「モテ非モテを意識しない」ということにもなるのではない。俺はそう解釈する。

 もしも、「モテ非モテを意識しない」のであるなら、つまり「喪男」であるなら、自分が「喪男」であることを意識すること自体が矛盾である。「喪男」であると謳うという行為も矛盾だ。自分の解釈に従えば、「喪男」が「喪男である」ことをアピールするのはおかしい。

 別にモテないからといって精神的に苦痛を感じることもなくなってきた。すっぱい葡萄と思っていた恋愛も、声高に「すっぱい」と騒ぎ立てる必要も感じない。(この記事を書くこと自体「あの葡萄はすっぱい」といっていることに他ならない、という厳しいツッコミが来そうだ)すっぱかろうと甘かろうと、葡萄を食べたいと思わなくなり、代わりに林檎や梨に関心が向かっている。

 そこで、ブログのタイトルを変更しようと思うんだ。とりあえず「喪男」という言葉をはずそうと思う。また「喪男」の代わりに「非リア」のような2ch用語を入れるのも控えようと思う。いわゆる「普通」のことばで自分の考えを綴ろうと思うからだ。(ぶっちゃけて言えば、リア非リアの区分もナンセンスだ)

 問題なのは、いざブログのタイトルを変更するとなると、いままでのタイトルよりは、いくらかいいものにしないといけないという思いにとらわれてしまう。今のタイトルもそんなにいいものとは思わないが、変更後のタイトルがもっとダサくなったらどうしよう。

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 何を以って「自由」または「抑圧」となすか。これの定義が各人によって異なることは自明のことである。ある人が「自由」感じることや環境に対して、またある人は非常に「抑圧」的と感じることもある。自由に関する「客観的」な定義―憲法などに記載されているような―は曲がりなりにもあったとしても、それを本当に自由と感じるか、または抑圧と感じるか、それは本人次第だ。

 彼にとってはアナーキズムが実現された社会ですら強権的で抑圧的である。が、同じその彼がビッグブラザーの支配する社会を自由で開放的だと感じてしまうこともあるのではないか。

 そう感じてしまう。

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 よく「好きな女性のタイプは?」と聞かれることがある。俺はこの手の質問が苦手だ。特に「具体的に芸能人で言うと誰?」と聞かれてしまうと困ってしまう。

 この前のサークルの食事会で先輩からこの手の質問をされた。困った。俺は「メガネっ子」と冗談っぽく言ってみたが、「メガネっ子??芸能人で言うと誰だよ?」と聞かれ答えられず、気まずくなってしまった。(そもそも「メガネっ子」は俺にとって単に「萌えるタイプ」であり「好きなタイプ」とは違う)ほかの人たちは色々な芸能人の名前を挙げていた。

 2次3次問わず俺には「好きな女性のタイプ」はこれといってない。具体的にこんな顔が好きだとかを考えたことが無い。別に、恋する人たちがよく言うような「好きなタイプは好きな人」というわけでもない。

 いま、改めて「好きなタイプ」とはどんなものか考えた。かなり無理をして出した結論を言えば「自分を人間として扱ってくれる人」だった。われながらつまらない結論だ。「人間として扱ってくれる」ならだれでもいいのかよ、と突っ込まれそうだ。だが、それ以外に思いつかない。これでは無いのと同じだ。

 これだと問題がある。「芸能人で言うと誰?」といった質問には答えられないし、「人間扱いしてくれる人」ではいかにも喪男っぽくて悲しい。

 一応芸能人で考えてみようと思ったが、芸能関連には疎いから分からない。アイドルも女優もモデルも名前を聞いて顔が思い浮かぶ人すらほとんどいない。顔が思い浮かんでも「理想のタイプ」とは思えない。こっち方面の知識もある程度必要なんだな。

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 このブログで何回も言及してきたことだが先ず言っておこう、俺はコミュニケーション能力が著しく低い。いわゆる非コミュだ。中学高校と昔から友達は少ないほうだったし、大学でももちろん、友達が少ない。ぼっちになるか否かの一歩手前にいて、クラスにも馴染んでいないしサークル内でも目立たないほうだ。

 コミュ力の低さは何に起因するか。一つは生まれつきのもの。もともと人見知りな性格に生まれてしまったのだからある程度は仕方がない。だが「生まれつき」ということですべてを片付けるのは乱暴だ。そこでもう一つのものとして、「技術面での会話下手」があるのではないかと思った。
 
 俺は人に話しかけるのが苦手だ。会話に持ち込むのが得意でない。打ち解けるまではどうしても自分から話しかけるのを躊躇してしまう。これが直せればいいと思うが、どう話しかけていいか分からない。また、それができても内容のある会話をするのに苦労する。

 そこで、俺が人に話しかけようとするとき(結局たいていの場合は尻込みしてしまうのだが)に俺の頭はどんなことを思考しているのかよく考えてみた。原因が分かれば対処法もおのずと明らかになるのである。

 俺は話しかけるとき、「相手に何かを語ろう」としてしまうのだった。「相手に何かを語る」ということはどういうことかというと、話しかける前に自分の脳内で、話したいこと(ネタ)やその構成など、あらかじめ話しを組み立てて、まるで落語を話すかのように相手にあることを饒舌に話そうとしていた。無理していたんだ。

 俺は落語家じゃないし、頭の回転も悪いし、会話のネタも少ないから、この方法を取ろうと(無意識のうちに)しては何度も失敗していた。失敗の原因がなかなか分からず随分苦労した。

 発想を転換して、今後は相手にまとまった話を聞かせようとするのでなく、自分から色々と質問をしてみようかと思う。質問を通じ相手から引き出し、そこから話を共同作業で組み立てていく。この「会話」こそが「対話」であり潤滑な人間関係の形成のみならず、信頼関係の構築をも成す鍵であろう。

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