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模索を続ける大学生(いわゆる「非リア」系)の日記。内面に関する省察が中心で根暗な印象かもしれませんがご容赦を。微力ながら自分の進むべき道を探求し続けます。たまにサークル内ぼっちとか喪男とかコミュ障とか社会不適合とか勉強とか… 2014年・就職しました
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プロフィール
HN:
おーじゃ
性別:
男性
職業:
大学生→社会人
趣味:
読書
自己紹介:
某大学の法学部に在籍中。「喪男」「非リア」「非コミュ」「真面目系クズ」「サークル内ぼっち」「社会不適合」勉強と読書中心の大学生活を望むも挫折気味。行き詰りの大学生活・・・
大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
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 ある高校の校長先生の卒業生へのメッセージがネット上で話題になっています。その高校は立教新座高校といってご存知立教大学の付属校です。その校長先生である渡辺憲司先生が寄せられたメッセージです。先の震災の影響で卒業式の中止を余儀なくされ、その代わりに校長先生がホームページにメッセージを載せたそうです。(詳しくはこちら:http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 文章はこれから大学に行くであろう卒業生に向けて、「大学生活とは何か」を語るものです。文章は簡潔にして明解。古風な文体が格調高く「名文」と呼ぶことのできるものです。

 今回はこのメッセージと共に、大学生活について考えてみようと思います。

 まず「大学生活とは何か」という問いに対する答えとして俗に言われるものを挙げています。

 ①学ぶために大学に行く
 ②多くの友人を得るため大学に行く
 ③楽しむため大学に行く

 しかし、渡辺先生はこの3者ではないと考えます。つまり「ガリ勉的大学生活」でもなければ「友達を得るための大学生活」でもなければ「遊ぶための大学生活」でもないとしています。

 では、先生のいう大学生活とは何なのでしょう。それは象徴的に言うと「海を見る自由」を得るためであり、言い換えると「立ち止まる自由」すなわち、自分が自分の時間を管理できる(その時間に何をするか自分で自律的に決定できる)自由であると言っています。

「大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。」

 さて、僕は「大学生活」は、「大学生活」それ自体が思考の対象となりうるという点で、中高までの生活とは大きく異なると考えます。つまり「管理されていた」高校まで(そして社会人)とは違い「大学生活」という時は「時間を自分で管理できる」時であるから、そこでどう過ごすか、どのようなモデルの「大学生活」を採るかは自分次第であり、そのためには「大学生活」はどうあるべきかを考えなければならないのです。自分は意義のある「大学生活」をしているかを不断に問い続けなくてはならないのです。「大学生活」には価値の高低があるのです。

 現在の自分の悩みとして「自分の大学生活はこれでいいのか」というのがありますが、それはもしかしたら大学生ならではのものではないかと考えました。

 自由があるから思索が生まれる。それが「大学生活」であると考えます。

「時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。」

 「孤独」という言葉がキイワードになっていますがこれは「ぼっち」正当論ではないのは明らかです。「思索する」という行為には、他人の介在を得ることは不可能であり、何かに直視して考えるということは必然的に孤独な行為になることを述べていると思われます。

 直視の自由を闘わなければならない。


 さて、自分の大学生活は残り3年になりました。さらに厳しいことを言えば、3年次の後半から就職活動が始まることを考えると実際の「大学生活」らしい「大学生活」の残り時間は一年半くらいしかありません(まあ、早期卒業や院進学を考えるとこの数字に変化が生じるかもしれませんが)

 僕はまだまだ問い続けなければありません。「大学生活」はどうあるべきかという問いには「勉強だけすればいい」「遊べばいい」「勉強と遊びのバランス」では答えになりません。問いというかすかな炎を消してはなりません。問いの連続それ自体が「大学生活」なのですから。 

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自分が所属しているサークルは活動が忙しいところで、なかなか勉強時間が確保できず、何も成し遂げられないと、今まで嘆いてきた。だけど、そういう考えは捨てよう。これからは、不利な状況といえど、現在できることを、全力でやろう。例えば、勉強については、スキマ時間を有効利用して…そして、残りの大学生活で何かを成し遂げたい。このままでいいわけないから。

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 ネット上の某所でカリスマ的人気がある方のブログを愛読させていただいています。

 ブログの内容は大学生活や(特に最近は)就活のことが中心で、これからの生活を考える上でとても参考になります。

 そのブログの中で、最近特に勇気付けられている記事があります。

 それは「大学生活の初めの頃は、高校までの生活とがらりと変わったことに対し適応できない場合があり、精神的に辛くなるが、それも1年か2年経てば慣れてきて辛くなくなる」という趣旨の記事です。

 自分も大学に入ってから、なかなか「大学生活」というものに適応できず、辛い思いでした。

 「大学生」的な「リア充」文化にサークル活動を通じて接することがありました(自分がいわゆる「リア充」である、ということとは決して同義ではありません)が自分の性格上楽しいものではありませんでした。

 大学生活の悩みを打ち明けられるような友人(信頼できる、かつ、大学という場所について理解がある人、という条件の人)もなかなか見つからないものでした。これに該当するのは今は大学生をしている高校の時の友人くらいでした。最近になって学部の友人にはある程度話せるようになったのですが…

 このような辛い思いが続く生活が入学以来、ずっと続いていました。しかし、さっき紹介した記事にあるように一年か二年で今の状況にもなれることができるということを知り、「まあ、なんとかなるか」と、以降辛いことも我慢できるようになりました。

 さらにいいことには、そうやって楽観的な思考を心がけることで、思考がネガティブなものからポジティブなものになってきました。いまでは「これが自分の大学生活か」と現状を引き受けられるようになってきました。

 自分の大学でも入試が始まった頃ですし、僕の大学生活もそろそろ二年目になろうとしています。二年目はぜひ楽しく、明るく、充実したものにしていきたいという思いです。

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 本音を話すということは勇気を必要とするもの。自分がいくら真剣に本音を話したとしても、それを笑いながら流されてはダメージが大きい。そのリスクを考えると本音を話せない。

 さて、今日はあまりくどくならないように・・・

 大学にも本音で話せる友達がほしいと思う。

 今の状況は、クラスの友達とだんだん打ち解けてきて、会話の中に本音を入れることができるようになったという段階。居心地はいい。

 個人的に嬉しいのは、昼食のときに、一人で食べたくなったときに「あ、俺、一人でメシ食ってくるから今日は一緒になれないわ」といえること。それを理解してもらえること。「人付き合い面倒だよな」と言う話題を出せ、共感できること。

 じゃあ「サークル内ぼっち」の俺のサークルでの状況は。今日はあまりネガティブなことを書くわけでないから安心してくれ。

 サークル内の状況は意外なことに好転しつつある。今までは「知り合いはいるけれど・・・」といった状況で、とても苦痛だったが、最近、本当に少しだが、自分の考えが伝わるようになってきた。メンバーとの仲は「知り合い」に過ぎないことは否定できないが「苦痛」と感じる度合いが以前より確実に少なくなっている。拘束時間の長さやノリの面倒さ、金銭的負担の大きさといった問題もあるにはあるけれど、今では何とかなりそうな気がしている。

 だんだん「サークル内ぼっち」という表現の語弊が大きくなっていると思う。できればその語弊を大きくして、こんな言葉を使わずできるようになりたい。

 いつも上辺でいるのは意外と苦痛なもので、思い切って本音を(オブラートで包んだとしても)言ったほうが居心地が良くなると、最近は考えるようになった。そして楽観的になると視界も良くなってくる。

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 どうも「リア充」という言葉が好きではない。特にいわゆる「非リア」が「リア充氏ね」とか「リア充爆発しろ」といっているのを聞くと違和感を感じる。そんなに「リア充」を妬む理由が分からない。

 俺にとっては「リア充的なもの」はあまり魅力的に感じない。「リア充的なもの」とはここでは単純化して「恋愛・友達(大人数)・ノリ・酒」としよう。以降自分のスタンスを細かく述べていく。

 俺は一応「喪男」(この言葉もあまり使いたくはないが・・・)と言う立場、つまり恋愛放棄の立場に立つから別に「恋愛」がしたくてたまらないというわけでもない。自分が「恋愛資本主義」(最近この言葉をあまり聞かなくなったが)に参加したいと思わなくなった。ちょっと前にも言ったが、「すっぱい葡萄」と合理化していた「恋愛」も、今では「それの甘さ」を認め、その上で「林檎や梨」に自分の関心が向かっている状態にある。童貞であることをそんなに恥じたり思わない。フーゾクで捨てたいとも思わない。

 次に「友達(大人数)」について。友人がいること自体は、悪くない。ただ別にそんなにたくさんほしくない。俺が友人と呼べるの人の数は、高校までの友人が片手で数えられるくらい、大学ではクラスにそれなりに親しい人が数人、サークルには0。数だけを取ってみればかなり少なく、皆が惨めな人生と笑うだろう。だが、少ない友人はどの人も「深い仲」または「長い付き合い」だと思っている。俺の性格上、大きな集団でつるんだりするのは好きになれないから、現状にほぼ満足している。欲を言えば、大学でできた友人との仲をもっと深めたい所だが。

 3つ目に「ノリ」について。「うぇ~いwww」「うはwwwマジパネェwww」「ヤベェwwwヤベェwww」これは問題外。アホらしいわ。まあ、親しい友人の前なら多少はっちゃけるのは苦痛どころか楽しいものだが。

 最後に「酒」について。この点に関しては、多少問題意識を感じている。俺みたいな「いい子」は法を忠実に守ってハタチにまで酒を飲まずに来た。本当に、無駄な所で「いい子」だ。まあ、そのため酒席になじめないことがあるしたくさん飲めない。社会人になれば嫌でも飲み会に参加しないといけないだろうし、その点ではもっと鍛える必要がある(さらにいうなら、お酒の味が分かり楽しめるくらいの余裕もほしい)とはいっても、別に毎週のように飲み会飲み会と続くのは全然魅力的ではないし、いわゆる「オール」はしたいと思わない。早く寝たいし。それに飲み代もバカにならない。

 こう考えると俺がいわゆる「リア充」を羨む理由は全くないと思う。「リア充」に魅力を感じないからだ。

 ただ、一点だけ、いわゆる「リア充」が優れていると思うのは、彼ら彼女らは日々に充実感を感じていることだと思う。これに対していわゆる「非リア」で充実感を感じている人は、残念ながら少数派だと思う。「非リア充」の「非」が「リア」のみならず「充」にも掛かっているのが問題だ。充実までも否定する必要はない。だから、自分を「非リア」とカコデライズする人、される人はもっと人生を楽しむべきじゃねーかと思う。そんなに劣等感を感じるよりも、充実を目指せばいい。俺だって自分の「充実の形」を確立したい。

 まあ、この話は大学生のことを想定して書いたものだから、社会人のことはまた別問題。まだ、社会人のことについては全然分からないから書きようがないんだ。

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