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大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
入学当初の自分は「法」を学ぶ学生ではなかった。「法律」や「法学」に触れるのは大学の講義の週3~4コマ中だけであり、日常生活において自分の頭の中を支配していたのは「教養」への憧れだった。そして、「法」は極めて低い位置づけだった。
かつて、浪人生活が終了し大学受験から離れた時、ある一つの目標を立てた。それは大学入試終了時から大学卒業までに1000冊の本を読むことであった。大学に行ったらとにかく読書をしようと考えていたのだ。
そのときの自分は単に「知的」なものへ憧憬を持っていただけに過ぎないかもしれない。だが、読書を通じて知ることのできる世界は魅力的だった。思想書を読めば過去の賢人の考えの一端に触れることができ、歴史書を読めば時空の流れというダイナミズムを味わうことができ、小説を読めば自分では到底経験できないような体験をすることができる。やがて社会人になり読書ができなくなることを思うと、消えゆくものを必死に追い求めるかのように本にむさぼりついた。
もちろん、自分は読んだ本の内容を全て理解していたわけではなく単なる乱読と思われるところもあった。青臭いアマチュアな教養だった。
このような「教養志向」のときの自分にとって、「法」を学ぶ(勉強する)ということは、読書の一環のようなものであった。大学の講義は法律書を(趣味として)読む手ほどきをするくらいのものと考えていた。
しかし、入学後に色々と事情が変わり、このようなノンビリとした「教養志向」の生活を維持しがたくなってきた。そして、大学生活を何かを為す(得るではなく)ことなしに終えることに恐怖に似た感情を持つようになった。僕は「専門性」を求めるようになった。「専門」の「学問」としての「法学」をぜひとも身に着けねばと思った。
そして、日常の関心ごとのナンバーワンが「法」に変わった。自分の中で「教養」が軽視された。そして、「法」が最大の関心ごとであるところの大学生、つまり「法」学部生になったのだ。
話は変わる。
昨日司法試験受験組の友人と会話をしていたときに夏休みの過ごし方の話になった。そのとき、その友人からは「勉強」という言葉が何度も出てきた。しかし、僕はその「勉強」の大切さを分かっていながらも、どこか空虚な響きを感じてしまった。
法律科目は2倍に増えたし、いわゆる「楽勝科目」もほとんどない。語学を除いて8科目履修しているけど、持ち込み可能なのは教養科目の1つのみ、事前に問題が公表されているのは法律科目で1つと、外国法科目の1つ。だから、その場で勝負しないといけないのは5科目だ。
問題形式は、ほぼ例外なく論述。理解力と暗記力が同時に試される。
科目の割には少ない勉強時間。空き時間の大半は勉強時間に当てているものの、それでも相当厳しい。
ここで挫けてはならない。自分はこの状況を、自分が司法試験を考えるに足る学力を持っているかを試す試練だと考えている。いくら去年に比べて大変になったといえ、司法試験に比べたらはるかに簡単な大学の期末試験だから、このくらいで挫けているようでは司法試験合格なんて到底無理だろうから。
今はそんなことを考えるよりも、目の前の勉強に集中するべきなんだけどね。空き時間を見つけては少しでも判例を叩き込み、条文の内容を覚え、学説を理解しないと。
僕は今、勉強している。くすぶっていた浪人時代よりも集中しているし、サークル活動に忙しかった先月よりも量をこなしている。今、充実感を感じている。
木陰にあるベンチに座ってジュースを口に含ながら一歩引いた冷静な気分でキャンパス内を見回してみると明らかに法学部生だろうと思われる学生を見かける。
なぜ法学部生だと分かるのか。賢そうに(自分以外は)見えるからか?地味な印象を受けるからか?大教室の中で黙々とノートをとる姿を既に見かけたことがあったからなのか?
答えは荷物の大きさである。
僕は普段、二つのバッグを使っている。一つは肩掛けのバッグでノート、筆記用具、弁当・飲み物といった日用品を中心に入れる。もう一つは手提げのバッグでこれは主に教科書、六法、外国語の辞書を入れるのに使う。
法律科目が多い曜日には、これらのバッグは膨れ上がり、とにかく重い。肩こりの原因になっているのではないかと思われるくらい重い。
例として、一番法律科目が多いと思われる日の持ち物を思い返してみると、教科書5冊(700ページ以上のが一冊、400ページくらいのが三冊、250ページくらいのが一冊)、文庫本、ノート、レジュメ、筆記用具、六法、弁当、ペットボトル、その他日用品・・・これでもまだマシなほうで、日によっては判例集、司法試験講座のテキスト、外国語の辞書、図書館で借りた本が入ることもある。
これを持って毎日満員に近い電車の中で片道2時間弱。疲れは溜まる一方。
もっとも法学部生(僕の大学の)といってもこれほど(これ以上も!)荷物が重いのはいわゆる「法曹コース」という司法試験を考えている人の場合であって実際はこれより少なくても済んでいる人のほうが多いが・・・
自分のバッグよりはるかに軽そうなのを持って颯爽とキャンパスを歩く人たちの華やかな姿を見ると、自分だけが貧乏くじを引いたときのような、少しばかりの悔しい思いにとらわれるのだ。
今まで散々サークルに愚痴っていたけど、これに対して正面から向き合うことから逃げてきたような気がする。というのも、ブログでは散々不満を漏らしてはいるけど、リアルではヘコヘコ、ヘラヘラとサークル内で振舞っていた。ネット弁慶(愚痴っているだけだから強そうでもないけど)みたいな物だった。
言い換えると、サークル内では自分の意思を発することが無く、ただ上の方針に黙って従うばかり。自分の「権利」は主張せず「義務」を渋々はたして来たばかり。
でも、ここで自己主張をしようかと考えた。
一旦サークルから離れようと。
どうして実質的に「やめて」形式的には「やめる」のではないのか。「休部」に近い形なのか。それは役職の件や今までの人間関係の悪化を避けるためである。特に前者が大きい。同じ役職についている先輩からそれなりの信頼は得てきたからだ。
時期が問題になる。
7月の半ばにもなればテスト期間ということもあり活動は休止。8月は地元に帰省する人が多いことから休止。9月から再開になるだろう。そして来年の1月にまたテスト期間で休止し、2月から再開し3月末に最上学年の先輩が引退する。
「やめる」となればそれなりにキリのいいところでやめたいところ。現時点では8月くらいに根回しを開始して9月から離れたい。そうすれば、自分の負担も最小限に抑えられるだけでなく、大学院入試を考えても都合がよい。
ただ、現状では難題ばかり。そう簡単に「やめる」ことが許される風潮ではないし、役職をどうするかが大問題。あまり楽しい話でなく申し訳ないところだけど、今回はこのくらいにしておく。
目をさましました。
右手で鼻を押さえながら、左手でティッシュを探しました。
眼鏡をしていなかったので、ティッシュはなかなか見つかりませんでしたが、なんとかポケットティッシュがみつかりました。ティッシュで鼻を押さえ、血だらけになった手を拭きました。
落ち着いたところで、手を洗いに洗面所にいきました。鏡をみたら血だらけの僕の顔が映っていました。
なぜ鼻血が出るか、詳しく分かりませんが、おそらく疲れとストレスかと思います。
疲れという点では、忙しくなった勉強やサークル活動が考えられます。最近は休日返上、深夜帰りは当たり前です。スケジュールを確認したら、少なくとも7月までは休めません。
ストレスという点も、ほぼ同じ原因です。
挙げ句の果てに、ツイッターで鬱ツイートを連発してしまいました。
もうだめそうです