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大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
ある高校の校長先生の卒業生へのメッセージがネット上で話題になっています。その高校は立教新座高校といってご存知立教大学の付属校です。その校長先生である渡辺憲司先生が寄せられたメッセージです。先の震災の影響で卒業式の中止を余儀なくされ、その代わりに校長先生がホームページにメッセージを載せたそうです。(詳しくはこちら:http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/)
文章はこれから大学に行くであろう卒業生に向けて、「大学生活とは何か」を語るものです。文章は簡潔にして明解。古風な文体が格調高く「名文」と呼ぶことのできるものです。
今回はこのメッセージと共に、大学生活について考えてみようと思います。
まず「大学生活とは何か」という問いに対する答えとして俗に言われるものを挙げています。
①学ぶために大学に行く
②多くの友人を得るため大学に行く
③楽しむため大学に行く
しかし、渡辺先生はこの3者ではないと考えます。つまり「ガリ勉的大学生活」でもなければ「友達を得るための大学生活」でもなければ「遊ぶための大学生活」でもないとしています。
では、先生のいう大学生活とは何なのでしょう。それは象徴的に言うと「海を見る自由」を得るためであり、言い換えると「立ち止まる自由」すなわち、自分が自分の時間を管理できる(その時間に何をするか自分で自律的に決定できる)自由であると言っています。
「大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。」
さて、僕は「大学生活」は、「大学生活」それ自体が思考の対象となりうるという点で、中高までの生活とは大きく異なると考えます。つまり「管理されていた」高校まで(そして社会人)とは違い「大学生活」という時は「時間を自分で管理できる」時であるから、そこでどう過ごすか、どのようなモデルの「大学生活」を採るかは自分次第であり、そのためには「大学生活」はどうあるべきかを考えなければならないのです。自分は意義のある「大学生活」をしているかを不断に問い続けなくてはならないのです。「大学生活」には価値の高低があるのです。
現在の自分の悩みとして「自分の大学生活はこれでいいのか」というのがありますが、それはもしかしたら大学生ならではのものではないかと考えました。
自由があるから思索が生まれる。それが「大学生活」であると考えます。
「時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。」
「孤独」という言葉がキイワードになっていますがこれは「ぼっち」正当論ではないのは明らかです。「思索する」という行為には、他人の介在を得ることは不可能であり、何かに直視して考えるということは必然的に孤独な行為になることを述べていると思われます。
直視の自由を闘わなければならない。
さて、自分の大学生活は残り3年になりました。さらに厳しいことを言えば、3年次の後半から就職活動が始まることを考えると実際の「大学生活」らしい「大学生活」の残り時間は一年半くらいしかありません(まあ、早期卒業や院進学を考えるとこの数字に変化が生じるかもしれませんが)
僕はまだまだ問い続けなければありません。「大学生活」はどうあるべきかという問いには「勉強だけすればいい」「遊べばいい」「勉強と遊びのバランス」では答えになりません。問いというかすかな炎を消してはなりません。問いの連続それ自体が「大学生活」なのですから。