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大学ぼっちのまま卒業し、現在は就職して新社会人。
そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずる所にしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意思に依存することもいらないのである。(ジョン・ロック「市民政府論」より引用)
この文章は社会契約論で有名な思想家、ジョン・ロックの考える自然状態についての文だ。いきなりロックを持ち出したのはいささか変に思うだろう。しかし、俺にとって「ぼっち」でいることと、このロックの定義した「自然状態」は似ていると思う。
「ぼっちという自然状態」について書く。
「ぼっち」であることは基本的に自由度が高い。「自然状態」のような自由な状態である。ここで言う「ぼっち」の「自由」とはリア充的人間関係のわずらわしさからの「自由」であって、残念ながら授業など大学生の半ば義務と化したものからの「自由」を意味するわけではない。非常に限定的な領域だ。
「ぼっち」でいることにより、最大限、自分のお金や時間、行動を自由に使えるとおもう。自分のために消費でき、自分のために時間を投資でき、自分のために娯楽を楽しめる。これは「ぼっち」のメリットだ。
しかし、キャンパス内に限ってみても一人で生きていくことは困難だ。何らかのコミュニティーに入っていないことのデメリットはわざわざここで言うまでもない。
だから、人は徒党を組む。それはクラスやサークルなど、群れる相手と知り合うのには様々な場合があるが、共通しているのは、本来「ぼっち」である場合に得られるメリットをその共同体に譲り渡し代わりに共同体の一員としてのメリットを得ることだ。
ホッブズ、ロック、ルソー。社会契約論の思想家の考えはリアルなのかフィクションなのかはここでは問題にしないが、自由を譲り渡してでも何らかの「安心」を得ようとするのは人間の「本能」であろう。
そして、俺もそのような人間の「本能」をもっている。
俺は「ぼっち」という自由な「自然状態」から脱して「サークル」という「共同体」の一員となった。先日サークルに入った。
どんなサークルかは本人特定の恐れがあるから言えない。ただ、リア充カラーがあまり強くなさそうな所を選んだ。かといって、オタク系ではない。
入った理由のなかで最も強いのが共同体への参加だ。大学でぼっちで生きていく覚悟が俺には出来なかった。「自由」を譲り渡してでも「安心」が欲しかった。金もかかる、それでも「安心」が欲しかった。過去問など相互扶助的な機能、就活での評価などの物質的な機能、これらの要因も大きい。
サークルの活動は明日から始まる。今の段階では同級生のメンバーの顔すらよく覚えていない状態で人間関係という点で見るとまだまだ不安。活動内容が自分に合うかも分からない。一寸先は闇。だが・・・・・・
5日も休みがあったが、やり残したことも少なくはなかったと思う。あまり充実した休みではなかった。
読書量も、意外なことに大学に通っているときのほうが多いし、ドイツ語の勉強もあまり進まず。いわんや、法学の勉強をや。教科書を一通り読んでしまおうと思ったものの実際には一回もページをめくっていない。
唯一、楽しかったことは中学時代の友達(N君とH君)と久しぶりに会ったことくらいだな。それ以外はパッとしない。
十分に時間があっても、それを有効活用するのは意外と難しいもので、大学のある普通の日のほうが少ない時間をやりくりできる。これは、浪人時代に怠けてしまうことと同じだ。
さて、五月病というか、最近、かったるく思うことが増えてきた。
5日も休んでしまうと、浪人だったころの怠け癖が戻ってしまったようで明日から大学が始まるというのにまだまだ家にいたいと思ってしまう。
大学の先輩などからよく聞かされたのだが、新入生は4月は新鮮な気持ちでやる気もあり講義などの出席率も高いが、しばらくすると大学生活にも飽きが生じ、授業の手の抜き方などを覚えてきて、ゴールデンウィークを過ぎたころからは五月病もあって大学に来ない人も多くなるらしいとのこと。
ここを乗り切らないと、そのまま怠けコースに入ってしまうことになる。俺は一応特待生という待遇でこの大学に通っているわけだからそれは許されない。自分に鞭打って大学に通わないといけない。
前回に引き続き受験時代を振り返る。今回は浪人時代についてだ。
一年前の今頃つまりゴールデンウィークのころは浪人生活のなかで一番辛い時期だったかもしれない。
俺の浪人時代のときに書いたブログを見ればよく分かるが、あのころはネガティブな感情が一番強かった。毎日落ちることや自殺のことばかり考えていた。
受験勉強自体もたいしてやっていなかった。受験生とは思えない量。全くやらない日もたくさんあった。
最悪だったな。
でも、何故か時間がたつとそのときのことがだんだん頭の中で美化(?)されていく。
「受験勉強はやっていなかったけどネット三昧とか今では出来ないこともたくさんやれたな」とか「夜更かししても早起きしないでのんびり出来るから楽だったな」とか。
このことは、確かに今では考えられないし、浪人生の「特権」なのかもしれない。
ゴールデンウィークに突入し、時間に余裕が出来た。なぜか昔のことを思い出した。去年の今頃は一番辛かった時期だった。一番自分がだめになった時期だった。
そんなことを考えながらふと思いついたことがある。「俺の受験生時代ってどんな感じだっけ?」
受験生だったころ、つまりそれは高校時代と浪人の合計4年になるのだが、そのときの俺はある意味で充実していたかもしれない。
いやいや勉強しかぜず部活も中途半端で友達も少ないし人生経験もほとんどつめなかったじゃないか、と言われてしまえばそれも正しい。だけど、本当にそれだけで全部片付けられるのか。4年間を表すのはそれだけなのか。
あのころ、俺は毎日第一志望合格という「夢」があった。その「夢」の実現のため、毎日努力を重ねていた(浪人時代は怠けてしまったが)大変な日々だったし、辛い気持ちになることも多かったが、それでも「希望」はあった。
終わってから言っても仕方がないし、客観的ではないが、受験時代もあながち悪いものじゃなかったかもしれない。